エッセイ · 現代アート
グレッチェン・ベンダー「Dumping Core」。
Gretchen Bender. Dumping Core.
像が多すぎると、何も見えない。
暗い部屋の十三のスクリーン
1984年、グレッチェン・ベンダーは「Dumping Core」をつくった。作品は四チャンネルの映像で、長さは十三分。同期した十三台のモニターの上で、組み合わせを変えながら再生されるようプログラムされている。登場人物はいない。筋もない。押し寄せる像だけ。
画面には、テレビのグラフィック、放送から取られた企業ロゴ、広告や番組や映画の断片。そのあいだに、エルサルバドル内戦の映像が差し込まれる。コンピューターアニメーションはアンバー・デンカーとともに制作された。電子音のサウンドトラックはスチュアート・アーガブライトによるもので、テクノに名前がつく前のテクノに近い鼓動だ。
ベンダーは当初、この作品をパフォーマンスとして、生演奏をともなう電子の劇場として構想した。のちにギャラリーのインスタレーションとして生きつづけた。作品はニューヨーク近代美術館に収蔵されており、2019年10月から2023年6月まで、暗くした部屋でブラウン管テレビに映して展示された。
テレビに抗うテレビのつくり手
ベンダーは、自分が批判する世界の外に立ってはいなかった。ミュージックビデオ、広告、テレビ番組の商業的な仕事をしていた。像がどのように切られ、組み立てられ、売られるかを正確に知っていた。よく知っていたからこそ、疑った。
1980年代初め、アメリカのテレビはテンポを変えつつあった。CNN は一日中ニュースを流した。MTV は歌を速いカットの連なりに変えた。コンピューターは、回転するロゴ、飛ぶ文字、光沢のある表面を描けるようになった。ベンダーにとって、それは視覚表現の新しい辺境であり、同時に心理的な圧力の道具でもあった。
彼女の答えは、身を引くことではなかった。テレビを模倣し、それをやりすぎるところまで押し進めた。彼女はかつて、おおよそこう語っている。メディアをまねるが、電圧をとても高く上げて、観る者が衝撃で目覚めるようにする、と。また彼女はメディアを、呑み込む川にたとえた。心はなく、ただ吸収し、変換するだけの川。
「Dumping Core」は、部屋に置かれたその川だ。観る者は泳げない。そこに立ち、運ばれるしかない。
クラッシュの前の記録
タイトルは初期のコンピューター用語から来ている。コアダンプとは、システムが止まる直前に保存される、コンピューターの全メモリの記録だ。技術者はそれを読んで、機械がなぜ止まったのかを理解する。
コアという語は、別の場所も指している。1979年、スリーマイル島の原子炉が故障し、その炉心が損傷した。技術が制御を離れることへの恐れ、核への恐れは、ベンダーがこの作品をつくったとき、まだ身近にあった。このタイトルで彼女は、像の文化全体が過負荷へ向かって走っていることを示唆する。
いま見ると、「Dumping Core」は警告のように読める。1984年の十三のスクリーンは、いま一人の人が一日にスクロールして通り過ぎる画面に比べれば、小さな数だ。ロゴはいまも回っている。戦争のニュースはいまも広告のあいだにある。ベンダーが見えるようにするのは、すべてが混ざり合う感覚だ。どの像も等しく、等しいがゆえに、どれも重くない。
作品は解決を差し出さない。すべてを一度にオンにし、欠けているものに観る者が気づくにまかせる。ひとつの沈黙かもしれない。記憶されるまで長くじっとしている、一枚の像かもしれない。