近代美術は様式ではなく、ひとつの時代である。19世紀末ごろから1960年代ごろにかけて、都市は膨らみ、工場が建ち並んだ。どの運動も、同じ問いへの答えだった。変わりゆく世界で、芸術は何をすべきか。
一面の色。ひとつのブロンズの塊。風船の中の息。ここでは、ものが初めから見つめ直される。
はじめに読む: 近代美術とは何か。
河原温「I Got Up」。
一日に一枚の絵はがき、ひとつのスタンプ、目覚めた時刻。それだけ。そして、それが作品だ。
ヒルマ・アフ・クリント(Hilma af Klint):「Paintings for the Future」。
グッゲンハイムの螺旋のスロープに170点を超える作品。建てられなかった神殿のための絵。そして描いた本人が見られないと知っていた時代のための絵。
サイ・トゥオンブリー(Cy Twombly)「Quattro Stagioni (A Painting in Four Parts)」
春、夏、秋、冬を、並べた四枚のキャンバスに。流れる絵具、手書きの文字、まだ濡れて見える跡。トゥオンブリーは、一年とひとつの生を通りすぎる時間を描く。
アグネス・マーティン。「Untitled #5」。
六フィート四方のキャンバス、暗い灰色の四本の帯、わずかに揺れる縁。アグネス・マーティンがガリステオで描いた、最後の灰色の絵のひとつ。
マグダレーナ・アバカノヴィッチ(Magdalena Abakanowicz)「Embryology」
束ね、縛り、縫いあわせた麻布が、やわらかく丸いかたちになり、床に横たわる。繭のように、卵のように、名もない身体の器官のように。
トニー・クラッグ「Stack」
壊れたレンガ、余った木材、古い雑誌を積み上げた立方体。その縁を見ると、発掘の壁のような地層が見える。
リンダ・ベングリス「Quartered Meteor」
1969年の素材の流れを、六年後に鉛で鋳造する。動いていたものが、重く、静かにとどめられる。
ヤニス・クネリス(Jannis Kounellis)。「Untitled」。
二本の支柱が壁に寄りかかり、四本の棒に生の羊毛が掛けられる。クネリスは絵画をやめていた。それでも羊毛で、ひとつの絵を描いた。
ピーノ・パスカーリ(Pino Pascali)。「Trappola」。
1968年、ピーノ・パスカーリは鍋を磨くスチールウールで、高さ四メートルの罠を作った。宙に吊られ、床に広がる。半分は漁網、半分はドレス。
エヴァ・ヘス(Eva Hesse)「Addendum」
上には、注意深く数えられた連なり。下には、自由に垂れて床でとぐろを巻く紐。ヘスは両方をひとつの作品に入れた。
ミケランジェロ・ピストレット(Michelangelo Pistoletto)「Venus of the Rags」
ヴィーナスがこちらに背を向け、古い色とりどりの服の山に顔をうずめる。長く続くものが、捨てられたものと向きあう。
カール・アンドレ(Carl Andre)。「Equivalent VIII」。
百二十個の耐火レンガ、二段、床に平らに。台座も彫りもない。問いはこうだ。私たちはそこに何を見るのか。
エリオ・オイチシカ「Tropicália, Penetrables PN 2 'Purity is a myth' and PN 3 'Imagetical'」。
砂、砂利、植物、布の小屋の道を、裸足で歩く。オイチシカの「Tropicália」は足と手と鼻を求め、ブラジルのひとつの運動に名を与えた。
ロバート・モリス「Untitled」。
高さほぼ一メートルの、鏡張りの立方体が四つ。自分の色をもたない。床の色、壁の色、まわりを歩く人の色をとる。
ロマン・オパルカ「Détail 1520432 to 1537871」。
1520432から1537871まで、小さな白い数字で覆われたキャンバス。像もなく、ほかの色もない。一生ほど長い数え上げの、ひと区間だけ。
マルセル・ブロータース(Marcel Broodthaers)。「Casserole and Closed Mussels」。
木の取っ手のついた鉄の鍋。蓋が持ち上がるほど高く積まれた貝殻。食べるものは何もなく、貝殻だけ。そして、私たちが芸術作品と呼ぶものについての問い。
マーク・ロスコ(Mark Rothko)。「Rothko Chapel」。
ヒューストンの一室に、空の光に照らされた黒に近い十四枚の絵。ロスコは1967年に描き終えたが、それが掛けられるのを見ることなく亡くなった。
ピエロ・マンゾーニ(Piero Manzoni)。「Artist's Breath」。
マンゾーニは風船をふくらませ、木の板に据えつけた。息はもうない。残るのは、しわの寄ったゴムの切れ端。貼りついたまま。
イヴ・クライン「IKB 79」。
像もなく、線もなく、タイトルもない。画面全体を覆う青だけ。クラインは見る人に、ひらかれた空間の前に立つように、その前に立ってほしかった。
マーク・ロスコ(Mark Rothko)。「Black on Maroon」。
長さ四メートル半を超える横長のキャンバス、深い栗色の上に黒。ロスコはフォー・シーズンズのためにそれを描き、そこにはふさわしくないと決めた。
アンリ・マティス(Henri Matisse)。「The Snail」。
マティスはカタツムリを二本の指でつまみ、何度も描いた。やがて殻を手放し、螺旋を残し、はさみを取った。
バーネット・ニューマン。「Adam」。
高さ二メートルを超える土色の面に、縦に走る三本の赤い帯。ニューマンはそれを「Adam」と呼んだ。土と赤に近いヘブライ語の名。
ジャクソン・ポロック「Summertime: Number 9A」
長さ五メートルを超えるキャンバスを床に置く。絵具は垂らされ、流され、はじかれる。「Summertime」は夏を描かない。身体のリズムをとどめる。
アルベルト・ジャコメッティ。「Man Pointing」。
ジャコメッティは「Man Pointing」をひと晩で、真夜中から朝九時までに作り直した。鋳造所の人々が来たとき、石膏はまだ濡れていた。男が何を指さしているのか、誰も知らない。
バーバラ・ヘップワース。「Pelagos」。
楡の塊をくりぬき、互いに巻きこむふたつの腕にする。内側は淡い青、張りつめた紐が渡される。ヘップワースはそれを海と呼んだ。
コンスタンティン・ブランクーシ(Constantin Brâncuși)「Le roi des rois」
高さ三メートルを超える樫の彫刻。建てられなかった神殿のために作られた。神殿はない。彫刻は残り、その部屋を連れて歩く。
ヘンリー・ムーア(Henry Moore)。「Recumbent Figure」。
ムーアは、長く低い家の前に置く彫刻を頼まれた。立つ像は建てなかった。横たわる像を彫り、水平線のほうを向かせた。
パブロ・ピカソ「Femme en pleurs」
パレットでいちばん明るい色で描かれた、泣く女。ピカソは悲しみを暗くしなかった。まぶしくした。
パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)「Guernica」。
八メートル近いキャンバス、色はひとかけらもない。「Guernica」はひと月あまりで描かれ、それから四十年以上待って、あるべき場所に届いた。
サルバドール・ダリ「Métamorphose de Narcisse」。
並んだふたつの同じかたち。水面の自分にかがみこむ男と、卵を持つ石の手。十分に長く見ていると、男は手に変わり、卵から花が咲く。
ピエト・モンドリアン(Piet Mondrian)。「Composition C (No.III) with Red, Yellow and Blue」。
ほぼ正方形のキャンバス、数本の黒い線、いくらかの白、少しの赤、黄、青。モンドリアンはごくわずかしか使わなかったので、どの要素も自分の分を担わなければならなかった。
ジャン・アルプ(Jean Arp)。「According to the Laws of Chance」。
アルプはかつてはさみで紙を切り、縁をすべてなめらかに研いだ。やがて屋根裏で古いコラージュがかびているのを見つけ、破りはじめた。
ルネ・マグリット「L'Homme au journal」
同じ部屋を、四度。一枚目では男が新聞を読んでいる。次の三枚で、彼はいない。ほかは何も変わらない。
ラースロー・モホリ=ナジ(László Moholy-Nagy)。「K VII」。
黒い棒、透明な灰色の面、淡い地。「K VII」はどんな物も描かない。構造を組むように、光を組む。
ピート・モンドリアン(Piet Mondrian)。「Tableau 2」。
ほぼ正方形のキャンバス、黒い格子、いくつかの原色。1922年までに、モンドリアンは世界を直線、直角、均衡にまで削ぎ落としていた。
マン・レイ「Cadeau」
アイロンはまだ重く、まだ冷たく、まだ取っ手がある。釘を一列加えると、それはもう家庭の道具ではない。
マックス・エルンスト(Max Ernst)。「Celebes」。
人類学の雑誌に載った、粘土のトウモロコシの貯蔵庫。マックス・エルンストは胴と角と目を加え、それは怪物になった。
ポール・ストランド、チャールズ・シーラー。「Manhatta」。
朝のフェリー、建物のあいだの煙と蒸気、屋上から見る夕日。「Manhatta」は、ひとことの台詞もなく、ある都市の一日を記録する。
マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)。「Fountain」。
デュシャンは便器を作らなかった。選び、向きを変え、偽の名で署名した。オリジナルは失われた。残るのは一枚の写真と複製。
ナウム・ガボ(Naum Gabo)。「Head No. 2」。
塊を彫るのでも、粘土を捏ねるのでもない。ガボは薄い面で頭部を組み、内側の空間を素材にした。
カジミール・マレーヴィチ(Kazimir Malevich)。「Black Square」。
部屋の隅に掛けられた黒い正方形。マレーヴィチはそれを始まりと呼んだ。X線は、黒の下にもう一枚の絵を見せる。
カジミール・マレーヴィチ(Kazimir Malevich)。「Dynamic Suprematism」。
画面に物はない。色と形と、動くための白い余白だけ。マレーヴィチは下描きなしで、キャンバスにじかに描いた。
マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)、リチャード・ハミルトン(Richard Hamilton)。「The Bride Stripped Bare by Her Bachelors, Even (The Large Glass)」。
ひびの入ったオリジナルはフィラデルフィアにある。テートの版は、メモの切れ端から組み直された。ガラスの上に油彩、鉛、埃、ワニス。
ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico)「The Uncertainty of the Poet」
頭のない石膏のトルソ、黄色いバナナの房、影を落とすアーケード、遠くの列車。デ・キリコは1913年にそれらを並べ、なぜかを問うことを私たちに残した。
ジェイコブ・エプスタイン「Torso in Metal from 'The Rock Drill'」
1915年、石膏のロボットが本物の削岩機にまたがっていた。戦後、エプスタインは削岩機を捨て、像を腰で切り、残りをブロンズで鋳造した。
マルク・シャガール「Paris through the Window」
八枚のガラスの窓、人の顔をした猫、ふたつの顔をもつ男。シャガールは1913年にパリを描き、故郷ヴィテブスクを絵の中に連れてきた。
ソニア・ドローネー、ブレーズ・サンドラール「La Prose du Transsibérien et de la petite Jehanne de France」。
二十二の折り、シベリアを横切る列車の詩、言葉を説明するのではなく言葉とともに旅する色。この本は、すべてひらいたときにしか読みきれない。
ウンベルト・ボッチョーニ(Umberto Boccioni)。「Unique Forms of Continuity in Space」。
ボッチョーニは1913年に石膏で原型を作った。ブロンズになるのを見ることなく亡くなった。それが存在するのは、誰かが壊れた破片を集め、貼りあわせたから。
ジョルジュ・ブラック(Georges Braque)「Clarinet and Bottle of Rum on a Mantelpiece」
横たわるクラリネット、瓶の上の RHU の文字、その下の VALSE の語。ブラックは物を描き、物と物のあいだの空間を描いた。
ロベール・ドローネー「Red Eiffel Tower」。
キャンバスの端を越えて伸びる赤い塔、その脚は歩いているように見える。ドローネーはエッフェル塔を分解し、あらゆる側から同時に見ようとした。
ワシリー・カンディンスキー。「Cosaques」。
赤い帽子、槍、虹はまだそこにある。けれど溶けはじめている。「Cossacks」は、抽象の縁に立つ絵。
エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)「The Scream」
テンペラ、クレヨン、一枚の板。フィヨルドのほとりの道で顔を押さえる人物。叫びは誰にも聞こえない。それでも見る人は皆、それが本物だと知っている。
ヒッポリート・ブランカール。プラチナプリント。
1887年から1889年まで、薬剤師イポリット・ブランカールは建設中のエッフェル塔を月ごとに撮影し、プラチナで焼き付けた。ほとんど褪せないプリント。
近代美術とは何か。
都市が膨らみ、工場が建ち、カメラが現れた。芸術家たちは世界を写すのをやめた。自分に見えるとおりに描きはじめた。