写真は記録の道具として生まれた。問いは早くからあり、今も変わらない。機械が記録するなら、その後ろに立つ人は何をするのか。
暗室。レンズを通さない一枚の紙。何年も撮り続けられた都市。写真と香りは一点で近い。どちらも、起きたことの痕跡である。
はじめに読む: 芸術としての写真。
カンディダ・ヘーファー(Candida Höfer)「Libraries, Museums and A Theatre」
誰もいなくなったあとに撮られた公共の部屋。空いた座席、埋まった棚、窓からゆっくり動く光。部屋が、そこにいた人々について語る。
イリーナ・ロゾフスキー「Miracle Center」。
昨日撮った写真と、数十年前の額。組み合わせると、手のひらにのる小さな物になる。
イニャキ・ボニージャス「Marginalia」。
白い余白、紙の縁、アトリエの床に落ちた切れ端。イニャキ・ボニージャスは写真が捨てるものを見つめ、そこにもう一枚の像を見つける。
杉本博司(Hiroshi Sugimoto)「Opticks」
画面に物はない。プリズムを抜けたあとの光の色と、ひとつの色が次の色に変わる場所だけ。
リチャード・リーロイド「Nature Morte」
生きたケシの横に、枯れたケシ。リアロイドは光に、その両方をじかに紙へ焼きつけさせる。フィルムもなく、複製もなく。
アレック・ソス(Alec Soth)。「I Know How Furiously Your Heart Is Beating」。
誰かが自分の部屋に座っている。窓の光。花瓶の花。見えないのは、その人の内側で起きていることだけ。
ダウード・ベイ(Dawoud Bey)「Night Coming Tenderly, Black」
森、家、野原。すべてがほとんど闇に沈んでいる。ダウード・ベイは、奴隷制から逃れる人々の目でオハイオの夜を想像する。
ヴェラ・ルッター「Museum in the Camera」
七か月露光されたヨーロッパ絵画の展示室。建物はもうない。紙のネガだけがそれを覚えている。
ゾーイ・レナード「Al río / To the River」
川は流れ、人はその上に国境を引く。ゾーイ・レナードは、その水が本当は何なのかを見るために、何年もその流れをたどった。
ガウリ・ギル(Gauri Gill)「Acts of Appearance」
仮面はもう神ではない。隣人、動物、物。ガウリ・ギルは、ふつうの一日の真ん中で、それをかぶる人々を撮る。
ジョエル・マイヤーウィッツ(Joel Meyerowitz)。「Morandi's Objects」。
瓶、貝殻、缶、絹の花。マイヤーウィッツはそれらをひとつずつモランディのテーブルに置き、部屋そのものの光で撮った。
ソフラブ・フラ「Snow」。
カシミールでの五つの冬。雪はすべてを白くし、やがて溶けて、その下にあるものを見せる。ソーラブ・フラはその両方を撮る。
ホンマタカシ。「Tokyo Obscura」。
黒い紙で覆った窓、テープでふさいだ隙間、街へ向いた小さな開口がひとつ。部屋はカメラになり、東京が逆さまに現れる。
ダヤニータ・シン(Dayanita Singh)「Museum of Chance」
木の美術館、44種類の表紙をもつ一冊の本、ふたつのスーツケース。ダヤニータ・シンは写真の並びを偶然に委ねる。
リズ・デシェーヌ(Liz Deschenes)「Gallery 7」
カメラもなく、像もない。夜の光にさらした紙だけ。銀と青のパネルが部屋に立ち、通りすぎる人を映す。
ニューシャ・タヴァコリアン(Newsha Tavakolian)。「Blank Pages of an Iranian Photo Album」。
誕生日。大学での休み。カスピ海の岸辺での一日。イランのひとつの世代のアルバムのページ。いくつかはまだ空白のまま。
ダヤニータ・シン(Dayanita Singh)「File Museum」
錆びた棚、袋、トランク、紐で束ねた紙の山。ダヤニータ・シンはインドのアーカイブを撮り、写真のために木のアーカイブを作った。
川内倫子(Rinko Kawauchi)「Ametsuchi」
毎年春、阿蘇の人々は祖先と同じように草原を焼く。川内倫子は煙の中に立ち、空を見上げる。
トーマス・ルフ「Photograms」
フォトグラムとは、印画紙に置いた物の影。トーマス・ルフは、物も紙も本当の暗室もないフォトグラムを作る。
ザネレ・ムホリ「Somnyama Ngonyama (Hail the Dark Lioness)」
たわしが頭飾りに、ラテックスの手袋が冠に、肌はより暗く焼かれる。ザネレ・ムホリは自分にカメラを向け、誰が誰を見るのかを問う。
リサ・オッペンハイム(Lisa Oppenheim)「Smoke」
1913年の油田爆発の煙、戦時の空中偵察の煙、2011年のロンドン暴動の煙。オッペンハイムはそれをマッチとトーチで焼きつける。
川内倫子(Rinko Kawauchi)「Illuminance」
水たまり、手、壁にさす日だまり。「Illuminance」には物語がない。並べられた写真のリズムだけがある。
キャサリン・オピー(Catherine Opie)「700 Nimes Road」
ラベンダー色のシャグラグの上の帽子箱。透明な箱の中のガウン。ベッドサイドテーブル。エリザベス・テイラーは一度も現れない。それでも、どこにでもいる。
ビーケ・デポールテル(Bieke Depoorter)。「Ou Menya」。
ロシア語が少し書かれたメモ。扉がひらく。ソファがひと晩だけのベッドになる。翌朝、また先へ。
ゾーイ・レナード。「Analogue」。
11年、古いローライフレックス、閉店間近の小さな店。ゾーイ・レナードは、それらが記憶に変わる前に撮った。
石内都「ひろしま hiroshima」。
一着のドレス、ひと組の手袋、一枚のブラウス。石内都は広島を惨事として撮らない。ひとりひとりを、その人が着ていたものを通して撮る。
杉本博司(Hiroshi Sugimoto)「Lightning Fields」
火花がフィルムに触れ、木のかたちを残す。カメラは何も見ていない。あるのは跡だけ。
ミカエル・スボツキー(Mikhael Subotzky)。「Beaufort West」。
ケープタウンとヨハネスブルグのちょうど中間の町。車が通りすぎる。刑務所はロータリーの中に立つ。とどまる人々はそのまわりで暮らす。
ソーラブ・フラ「Life is Elsewhere」。
母、犬、いくつも鍵のかかった家。息子はカメラを持ち、その内側にいながら、出ていきたいと願う。
ヴォルフガング・ティルマンス「Freischwimmer 54」。
カメラもネガも、撮るものもない。暗室で紙の上を通りすぎる光と、あとに残る色の軌跡だけ。
タリン・サイモン「An American Index of the Hidden and Unfamiliar」
放射性のカプセル、冬眠する熊、CIA 本部。どの写真にもキャプションがつき、見えないところにある物の目録の一項目のよう。
ラトーヤ・ルビー・フレイジャー(LaToya Ruby Frazier)。「The Notion of Family」。
三世代の女性、衰えていくひとつの鉄鋼の町。フレイジャーは、ある場所の歴史がそこに暮らす人々の身体に書かれていることを見せる。
リチャード・ミズラック「On the Beach」
岸もなく、水平線もない。水と、そこに浮かぶ小さな身体だけ。ミズラックは上から見下ろす。
川内倫子(Rinko Kawauchi)「Utatane」
最初の写真集、うたた寝を意味するタイトル。「Utatane」は、目を開けたばかりの、まだすっかり覚めていない目で日常を見る。
石内都「Mother's」。
母の顔はない。口紅、下着、靴、まだ彼女の髪が残るヘアブラシだけ。そしてそれらの物から、ひとりの人が現れる。
米田知子「Scene」
浜辺。森。穏やかな草の丘。米田知子はかつて戦争があった場所を撮り、残りはタイトルに語らせる。
Adam Fuss. My Ghost.
煙がかたちを保つのは一秒に満たない。アダム・フスはそれを印画紙に触れさせ、その一秒をとどめる。
アレック・ソス(Alec Soth)。「Sleeping by the Mississippi」。
ウィノナのハウスボート。ヴァーサで模型飛行機を持つ男。ファウンテンシティの墓地。川がそれらをつなぐ。
アン・マイ・レー。「Small Wars」。
週末のヴァージニアの森で、古い軍服を着たアメリカ人たちが、もう一度戦争をする。アン・マイ・レーは、ベトコンのゲリラ役を振られながら彼らを撮る。
アンドレアス・グルスキー「99 Cent」
何千もの安い商品が、天井まできちんと積まれている。遠くからは一面の色。近くでは、菓子の袋ひとつひとつ。
米田知子「Between Visible and Invisible」
古い眼鏡がページの上に置かれ、レンズ越しに数行がはっきりする。米田知子は、その持ち主がかつて読んだものを撮る。
トレント・パーク「Dream/Life」
日よけの下で雨宿りする男。ビルの影に溶けていく会社員。トレント・パークのシドニーは、現実であり夢のようでもある。
ボリス・ミハイロフ(Boris Mikhailov)。「Case History」。
1990年代末のハルキウの路上生活者を写した四百枚を超える写真。ボリス・ミハイロフは彼らに金を払い、ポーズをとらせ、見る人に目をそらさせない。
エドワード・バーティンスキー(Edward Burtynsky)「Oil」
油田、製油所、高速道路、船の解体場を撮った十二年。石油そのものは一度も写らない。石油が土地にすることだけが写る。
ローラ・レティンスキー「Hardly More Than Ever」。
食事は終わり、客は席を立った。レティンスキーは食卓に残されたものを撮り、消えていくことについての静物に変える。
リチャード・ミズラック「Golden Gate」
同じ橋、同じポーチ、いくつもの朝と夕。違うのは光だけ。ミズラックはそのひとつひとつを記録した。
サミュエル・フォッソ「Tati」
タチの店内に写真スタジオを開くよう招かれたサミュエル・フォッソは、レンズを自分に向け、店の棚の服をまとって十の人物になった。
サントゥ・モフォケン「The Black Photo Album / Look at Me」
南アフリカの黒人家族を写した写真館の肖像のスライド八十枚。スーツ、長いドレス、念入りなポーズ。彼らは自分がどう見られるかを選んだ。
Susan Derges. River Taw.
長さ二メートル近い印画紙が、夜の川の底に横たわる。一度の閃光。水が自らを焼きつける。
ヴォルフガング・ティルマンス「Concorde Grid」
五十六枚の写真、一機の飛行機、そして一度もそれに乗らなかった写真家。「Concorde Grid」は地上から速さを見る。
アレッサンドラ・サンギネッティ(Alessandra Sanguinetti)。「On the Sixth Day」。
ウサギ、馬、豚、ガチョウ、子羊、牛。ブエノスアイレス近くの農場で、動物の生と死があからさまに起きる。
畠山直哉(Naoya Hatakeyama)。「Blast」。
石灰岩の崖が爆発し、シャッターが千分の一秒で切られる。岩はまだ落ちていない。埃はまだ落ちつかない。人の目には、これは見えない。
ウタ・バース(Uta Barth)。「Ground」。
カメラは何にも焦点を合わせない。壁も額もたんすも、すべてぼやける。残るのは部屋の空気と、見るという行為そのもの。
マーク・パワー(Mark Power)。「The Shipping Forecast」。
ドーバー。ファストネット。ジャーマン・バイト。イギリスの人々が子どもの頃からラジオで聞き、ほとんど誰も見たことのない名前。マーク・パワーはそのひとつひとつへ行った。
リネケ・ダイクストラ(Rineke Dijkstra)「Beach Portraits」
十代の子、水着、背後の海と空。隠れる場所はない。ダイクストラは、まだ立ち方を知らない身体を撮る。
Abelardo Morell. Camera Obscura.
空っぽの部屋の壁一面に、マンハッタンが逆さまに横たわる。外が小さな穴から入ってくる。
畠山直哉(Naoya Hatakeyama)。「Lime Works」。
日本各地の石灰とセメントの工場を、夜が明けきる前に撮る。どの面も細かな白い粉をまとう。都市はここから始まる。
キャリー・メイ・ウィームス(Carrie Mae Weems)。「Kitchen Table Series」。
同じテーブル、同じランプ、同じカメラの角度。人だけが来ては去る。台所のテーブルが、ひとつの人生の舞台になる。
トーマス・シュトゥルート「Museum Photographs」
絵の前の人々。そして、絵の前の人々を写した写真の前の人々。トーマス・シュトゥルートは、美術館へ行くことを主題にした。
山本昌男(Masao Yamamoto)。「A Box of Ku」。
山本昌男は小さなプリントを作り、それを古びさせ、箱に収める。一枚一枚が物である。箱全体は、空白を抱えている。
ロバート・メイプルソープ「Calla Lily」。
一本の茎、巻いた一枚の花弁、無地の背景。メイプルソープは、彫像を撮るようにカラーリリーを撮った。
サリー・マン「Immediate Family」。
サリー・マンは家族の農場で、三人の子どもを八年間撮った。写真はやさしく、そして落ち着かない。議論がやんだことは一度もない。
ラリー・サルタン(Larry Sultan)。「Pictures from Home」。
息子がカメラを持って帰郷する。両親はモデルであり、批評家でもある。家族の記憶はどう築かれるのか。
マーティン・パー(Martin Parr)。「The Last Resort」。
泣く子ども、砂の上のごみ、コンクリートの上に寝そべる日光浴の人々。マーティン・パーは、派手な色と直接のフラッシュで海辺の保養地を撮った。
ジョー・スペンス(Jo Spence)。「The Picture of Health?」。
ひとりの女性がカメラを持って病院へ入る。ジョー・スペンスは自分の身体を撮り、あらためて問う。誰が見るのか、誰が語るのか。
ソフィ・カル「The Hotel」。
乱れたままのベッド、洗面台の横の香水、スーツケースの中の手紙。客は出かけている。持ち物はとどまる。
杉本博司(Hiroshi Sugimoto)「Seascapes」
ひとつの水平線、上に空、下に海。杉本博司は四十年にわたり、世界中でその構図をくり返してきた。
グラシエラ・イトゥルビデ(Graciela Iturbide)「Juchitán de las Mujeres」
生きたイグアナを冠にした女性。グラシエラ・イトゥルビデは、フチタンを、その町のリズムを保つ女性たちを通して撮った。
ナン・ゴールディン(Nan Goldin)。「The Ballad of Sexual Dependency」。
部屋、バー、ベッド、なじみの顔。一枚一枚が数秒とどまり、音楽に合わせて次へ譲る。
リチャード・ミズラック「Desert Cantos」
砂漠は空っぽに見える。よく見ると、そうではない。ミズラックは四十年以上、人が乾いた土地に残すものを撮りつづけてきた。
ソフィ・カル「The Sleepers」。
八日間、二十七人、一度も空かないベッド。ソフィ・カルはそばに座り、一時間ごとに写真を撮り、見知らぬ人々が眠るのを見つめた。
ガブリエーレ・バジリコ「Milano. Ritratti di fabbriche」
人のいない休日、強い日差し、鋭い影。ガブリエーレ・バジリコはミラノの工業地区を歩き、工場をひとつずつ、顔のように撮った。
ジョエル・スタンフェルド(Joel Sternfeld)。「American Prospects」。
燃える家と、道ばたの売り場でかぼちゃを選ぶ消防士。スターンフェルドは何も演出しなかった。両方が見えるほど、十分に離れて立った。
マイク・マンデル(Mike Mandel)とラリー・サルタン(Larry Sultan)。「Evidence」。
アーカイブの写真五十九枚、キャプションはひとつもない。客観的な証拠が、謎に変わる。
杉本博司(Hiroshi Sugimoto)。「Dioramas」。
剥製の動物、描かれた空、人工の芝。杉本博司のレンズを通すと、それらは野生の生きた一瞬になる。
杉本博司(Hiroshi Sugimoto)「Theaters」
二時間の映画、一回の露光。すべての像が積み重なって白い光の塊になり、まわりの部屋はその同じ光から浮かびあがる。
Peter Hujar。Portraits in Life and Death。
カメラの前で安らかに横たわる二十九人の友人。そのあとに、パレルモのミイラ。ピーター・フジャーが生前に作った唯一の本。
Sunil Gupta. Christopher Street.
1976年、ニューヨークのひとつの通りで撮られた六十枚。昼の光の中で立ち、歩き、互いを見つめる男たち。変わる前に記録された通り。
フランチェスカ・ウッドマン「Space²」
写真学生が美術館の展示ケースに入り、シャッターを開く。身体はぶれる。部屋は鮮明なまま。
深瀬昌久(Masahisa Fukase)。「Karasu」。
七年間のカラス。暗いプリント、粗い粒子、雪と黒い翼。深瀬昌久はそれを、自分自身についてのシリーズと呼んだ。
ニコラス・ニクソン(Nicholas Nixon)「The Brown Sisters」。
四人の姉妹、変わらないひとつの並び順、一年に一枚。四十年以上のあいだ、変わるのは彼女たちの顔に刻まれる時間だけ。
ルイス・ボルツ(Lewis Baltz)「The New Industrial Parks near Irvine, California」
正面から撮った工場の外観。人はおらず、劇的な影もない。見るべきものがない。だからこそ、よく見なければならない。
ロバート・アダムス「The New West」。
壮大な峡谷も、赤い夕日もない。屋根、電柱、ならした道、そしてその奥にまだ立つ山々だけ。ありのままの西部。
クリス・キリップ(Chris Killip)「In Flagrante」
浜で石炭を拾う人々、崖の下の漁村、工場が閉じたあとの通り。クリス・キリップは十年以上、イングランド北東部を撮った。
スティーヴン・ショア「Uncommon Places」。
ロサンゼルスの交差点。ダイナーのテーブルの朝食。モーテルの部屋。特別なものは何もない。それを最大の精度で撮る。
ベルント・ベッヒャー(Bernd Becher)、ヒラ・ベッヒャー(Hilla Becher)。「Water Towers」。
九つの給水塔、同じ角度、同じ灰色の光で並ぶ。十分に長く見ていると、ひとつひとつの違いが見えてくる。
アーヴィング・ペン「Cigarettes」。
ニューヨークの歩道で踏みつぶされた、半分燃えた吸い殻。ペンはそれを彫刻ほどの大きさで撮り、貴金属でプリントした。
クラウディア・アンドゥハル(Claudia Andujar)「The Yanomami」
レンズにワセリン、オイルランプ、赤外線フィルム。クラウディア・アンドゥハルは見えないものを撮ろうとした。ヤノマミの夢と精霊の世界。
森山大道(Daido Moriyama)「Stray Dog, Misawa」(三沢の犬)
もつれた毛、警戒する目、道に立ってふり返る。1971年のある朝、森山大道はその犬に出会い、自分自身を見た。
ルイジ・ギッリ「Kodachrome」
ポスターが空の半分を覆う。地図が風景のかわりに立つ。ギッリは、気づかぬうちに私たちが囲まれて暮らす像の層を撮る。
深瀬昌久(Masahisa Fukase)。「Family」。
深瀬昌久は父の写真館で、家族を毎年撮った。背景幕の前に立つ人が、誰もいなくなるまで。
ダイアン・アーバス(Diane Arbus)。「A box of ten photographs」。
十枚の写真、透明な箱、五十セットの予定、生前に売れたのは四セットだけ。アーバスは、残す価値のあるものを選んだ。
ラルフ・ユージン・ミートヤード(Ralph Eugene Meatyard)。「The Family Album of Lucybelle Crater」。
全員が仮面をつけ、ひとつの名前を分けあう家族アルバム。ミートヤードは、いちばん近い人をどうやって見分けるのかを問う。
Josef Koudelka. Exiles.
寝袋、一足の靴、カメラ。家のない十五年。「Exiles」はそのあとに残ったもの。
アーヴィング・ペン「Flowers」。
大きくひらいたチューリップ、いまにも落ちそうなケシ。ペンは花をいちばん美しいときではなく、いちばん本当のときに撮った。
細江英公。「Kamaitachi」。
踊り手が田んぼを走り、跳び、農家の壁の陰に隠れる。細江英公は、東北の農村で過ごした自らの幼年期の伝説を撮る。
リー・フリードランダー「Self-Portraits」。
歩道の影、窓の映りこみ、フレームの端の半分の顔。リー・フリードランダーは六十年以上、自分を撮りつづけた。全身が写ることはまれ。
ヴィヴィアン・マイヤー「Self-portraits」(セルフポートレート)。
歩道の影、ショーウィンドウの顔。ヴィヴィアン・マイヤーは何度も自分を撮ったが、正面から撮ることはまれだった。
芸術としての写真。
カメラはレンズの前のすべてを記録する。写真家はそうしない。写真が芸術になるのは、何を見て、何を外すかを選ぶところにおいてだ。