河原温「I Got Up」。
一日に一枚の絵はがき、ひとつのスタンプ、目覚めた時刻。それだけ。そして、それが作品だ。
Burberry. The Burberry Trench: Crafting an Icon.
雨と泥に耐えるために生まれたコート。1世紀後、それは V&A のケースに収まる。襟を返し、ベルトを締めたまま。
ファッション:18世紀、夢想された遺産。
マリー・アントワネットのコルセット、戦後のオートクチュール、2021年のドラァグの写真。何度も着直される1世紀。
「Paul Poiret: Fashion is a Feast」。
コルセットのないドレス、香水のメゾン、学校、セーヌ川に浮かぶ三艘の艀。MAD パリで、ポワレはひとつの世界をまるごと築いた人として現れる。
リック・オウエンス(Rick Owens)「Temple of Love」
軍用バッグ、軍の毛布、洗いをかけた革。ガリエラ宮で、リック・オウエンスは黒と埃と、前の生をもつ物の神殿を建てた。
イ・ミレ(Mire Lee)。「Open Wound」。
イ・ミレ(Mire Lee)はタービン・ホールを生きた工場に変えた。ゆっくり回るタービン、したたる液体、濡らされ、乾かされ、天井へ吊り上げられる布の皮。
スティーヴン・ジョーンズ「Chapeaux d'artiste」。
170点を超える帽子、40のルック、パリのメゾンとの四十年の仕事。身体がいちばん目につく場所に置かれた小さな物。
エル・アナツイ。「Behind the Red Moon」。
遠くからは帆、赤い月、黒い壁。近くでは、何千もの酒瓶のキャップ。ひとつひとつにラベルと交易の道がある。
ガブリエル・シャネル「Fashion Manifesto」
絹のセーラーブラウス、ツイードのスーツ、数字で名づけられた香水。V&A で、シャネルのマニフェストは物で書かれていた。
イリス・ヴァン・ヘルペン(Iris van Herpen)「Sculpting the Senses」。
3D プリント、レーザーカット、ガラス吹き、電磁の織り。イリス・ヴァン・ヘルペンは、水や骨や成長する仕組みのかたちを借りたドレスを作る。
「Africa Fashion」。
藍で染めたアディレ、カメルーンの写真館の肖像、手形で覆われたトレンチ。「Africa Fashion」は、多くの声で装うひとつの大陸を見せた。
セシリア・ビクーニャ(Cecilia Vicuña)「Brain Forest Quipu」
アンデスの人々は文字を書かず、紐を結んだ。セシリア・ビクーニャは、消えゆく森を覚えておくために、記憶の紐二本をタービン・ホールに高さ27メートルで吊るした。
「Fashioning Masculinities: The Art of Menswear」。
2022年の V&A に、およそ100のルックと100の作品。三つの部屋、undressed、overdressed、redressed。男らしさは仕立てられたものだとわかる。
レフィーク・アナドール「Unsupervised: Machine Hallucinations」、MoMA
レフィーク・アナドルは、MoMA のデジタルアーカイブのほぼすべてを機械に見せ、美術館の大きなスクリーンで一年近く夢を見させた。
エルザ・スキャパレリ「Shocking! Les mondes surréalistes d'Elsa Schiaparelli」。
2022年、MAD パリのエルザ・スキャパレッリ回顧展は、彼女の服をダリ、コクトー、マン・レイと並べた。ファッションとシュルレアリスムはひとつの問いを共有する。この物はどこにあるのか。
カンディダ・ヘーファー(Candida Höfer)「Libraries, Museums and A Theatre」
誰もいなくなったあとに撮られた公共の部屋。空いた座席、埋まった棚、窓からゆっくり動く光。部屋が、そこにいた人々について語る。
ティエリー・ミュグレー「Couturissime」
甲冑、昆虫の羽、金属のロボット。MAD パリで、ティエリー・ミュグレー展はオペラのように幕ごとに展開した。
「Kimono: Kyoto to Catwalk」。
19世紀の京都の打掛から、オビ=ワン・ケノービのローブまで。一枚のまっすぐな衣服が、三世紀といくつもの大陸を渡る。
イリーナ・ロゾフスキー「Miracle Center」。
昨日撮った写真と、数十年前の額。組み合わせると、手のひらにのる小さな物になる。
イニャキ・ボニージャス「Marginalia」。
白い余白、紙の縁、アトリエの床に落ちた切れ端。イニャキ・ボニージャスは写真が捨てるものを見つめ、そこにもう一枚の像を見つける。
カラ・ウォーカー(Kara Walker)。「Fons Americanus」。
カラ・ウォーカーはヴィクトリア記念碑をもとに四段の噴水を建て、その水に大西洋奴隷貿易を語り直させた。
マリー・クワント(Mary Quant)。
2019年から2020年の V&A のマリー・クヮント展は、若く手の届くファッションをロンドンの街に持ち込んだデザイナーを振り返る。多くのドレスには、いまも上げた裾の跡が残る。
トゥアン・アンドリュー・グエン(Tuan Andrew Nguyen)。「The Specter of Ancestors Becoming」。
ディエンビエンフーのあと、何百人ものベトナムの女性がセネガル兵の夫についてアフリカへ渡った。その子孫がいま、交わされなかった会話を書く。
ヴァージル・アブロー「Figures of Speech」。
傾いたガソリンスタンドの看板、スニーカーの棚、台座に鎖でつながれたバッグ。MCA シカゴで、ヴァージル・アブローは街の物をギャラリーに持ち込んだ。
「Fashioned from Nature」。
モスリンのドレスに甲虫の羽、帽子にキジの羽根、コートになったセロファン。どの衣服も、仕事場の外のどこかから始まる。
フリーダ・カーロ「Making Her Self Up」
フリーダ・カーロの私物は、彼女の死後五十年、鍵をかけてしまわれていた。2018年の V&A で、それらは初めてメキシコを出た。
ヒルマ・アフ・クリント(Hilma af Klint):「Paintings for the Future」。
グッゲンハイムの螺旋のスロープに170点を超える作品。建てられなかった神殿のための絵。そして描いた本人が見られないと知っていた時代のための絵。
杉本博司(Hiroshi Sugimoto)「Opticks」
画面に物はない。プリズムを抜けたあとの光の色と、ひとつの色が次の色に変わる場所だけ。
ローレンス・アブ・ハムダン「Walled Unwalled」。
ベルリンの古いスタジオで二十分のモノローグ。壁を越えて証拠になった物について。
「Margiela, les années Hermès」。
六年、十二のコレクション、ふたつのメゾン。MAD パリで、エルメスのオレンジとマルジェラの白がひとつの順路を分けあう。
リチャード・リーロイド「Nature Morte」
生きたケシの横に、枯れたケシ。リアロイドは光に、その両方をじかに紙へ焼きつけさせる。フィルムもなく、複製もなく。
teamLab Borderless: MORI Building DIGITAL ART MUSEUM(森ビル デジタルアート ミュージアム)
チームラボボーダレスでは、作品は部屋にとどまらない。さまよい、触れ、見る人とともに変わる。来場者は自分で道を見つけなければならない。
アレック・ソス(Alec Soth)。「I Know How Furiously Your Heart Is Beating」。
誰かが自分の部屋に座っている。窓の光。花瓶の花。見えないのは、その人の内側で起きていることだけ。
「Balenciaga: Shaping Fashion」展
百点を超える服と帽子、X線画像、再現された型紙。V&A はドレスを見せただけではない。それを支えるものを見るために、ひらいてみせた。
「Christian Dior, couturier du rêve」
ディオール70周年のパリの展覧会は、ディオールがかつて営んだギャラリーから、アトリエを通り、六人の後継者へと進む。ひとつの名前が、何度も読み直される。
ダウード・ベイ(Dawoud Bey)「Night Coming Tenderly, Black」
森、家、野原。すべてがほとんど闇に沈んでいる。ダウード・ベイは、奴隷制から逃れる人々の目でオハイオの夜を想像する。
J・P・スニアデッキ、ジョシュア・ボネッタ。El Mar La Mar。
3年、16mmフィルム、国境が走る砂漠。スニアデッキとボネッタは国境を撮らなかった。砂漠が留めているものを撮った。
SUPERFLEX. One Two Three Swing!
オレンジの線、三人乗りのブランコ。ひとりで漕ぐ。三人がリズムを合わせると飛ぶ。
ヴェラ・ルッター「Museum in the Camera」
七か月露光されたヨーロッパ絵画の展示室。建物はもうない。紙のネガだけがそれを覚えている。
アーサー・ジャファ「Love Is the Message, the Message Is Death」
およそ七分、何百もの断片、一曲の歌。喜びと暴力が、間をおかずに続く。
「Fashion Forward, 3 siècles de mode」展
三百着の服、三世紀、それぞれの時代の立ち姿を形づくる振付家。しまわれた服が、ふたたび語る身体を待つ。
Jorge Otero-Pailos. The Ethics of Dust.
イギリス議会のもっとも古い壁にラテックスを吹きつけ、何世紀分もの埃とともに剥がす。その膜は、それが来た壁の横に吊るされた。
「MIYAKE ISSEY EXHIBITION: The Work of Miyake Issey」
東京の三つの部屋に、三宅一生の服の四十五年。平らな一枚の布、プリーツ、そこへ入る身体。
ロバート・アーウィン「untitled (dawn to dusk)」。
C字形のコンクリートの建物、並ぶ窓、黒と白の二枚の紗幕。壁には何もない。作品は、一日を通り抜ける光。
「Tenue correcte exigée, quand le vêtement fait scandale」
女性のズボン、ミニスカート、フランス議会の人民服。スキャンダルのたびに、ひとつの規則があらわになる。
「Undressed: A Brief History of Underwear」(下着の小史)。
綿と鯨ひげのコルセット、ガチョウの羽毛のペチコート、トロンプ・ルイユのコルセットドレス。ほとんど誰も見ない層が、外側のすべての形を決める。
ゾーイ・レナード「Al río / To the River」
川は流れ、人はその上に国境を引く。ゾーイ・レナードは、その水が本当は何なのかを見るために、何年もその流れをたどった。
Abraham Cruzvillegas. Empty Lot.
ロンドン中の公園から集めた土、ランプ、毎日の水、そして一粒も蒔かれない種。「Empty Lot」は、何が育つかを土に決めさせる。
ガウリ・ギル(Gauri Gill)「Acts of Appearance」
仮面はもう神ではない。隣人、動物、物。ガウリ・ギルは、ふつうの一日の真ん中で、それをかぶる人々を撮る。
ヒト・シュタイエル(Hito Steyerl)「Factory of the Sun」
青いグリッドのスタジオで、労働者たちが踊らされる。その動きのすべてが、人工の陽光に変えられる。
ジョエル・マイヤーウィッツ(Joel Meyerowitz)。「Morandi's Objects」。
瓶、貝殻、缶、絹の花。マイヤーウィッツはそれらをひとつずつモランディのテーブルに置き、部屋そのものの光で撮った。
ジョン・アコムフラ(John Akomfrah)。「Vertigo Sea」。
鯨、波、移民の船、奴隷船。ジョン・アコムフラは三つのスクリーンにそれらを並べ、海に物語を語らせる。
ジュリアン・ローゼフェルト(Julian Rosefeldt)「Manifesto」
十三のスクリーン、ひとりの演者、日常の真ん中で語られる古い芸術のマニフェスト。言葉は残り、部屋が変わる。
グエン・チン・ティ(Nguyễn Trinh Thi)。「Letters from Panduranga」。
ニントゥアンのひとりの女性、ベトナム中部を旅するひとりの男性。ふたりは手紙を交わし、チャム族を撮る資格が自分たちにあるのかと考える。
レイチェル・ローズ(Rachel Rose)「Everything and More」
レイチェル・ローズは、宇宙飛行士の言葉を水や漂う液体と重ね、重力が消えたとき身体に何が残るのかを問う。
ソフラブ・フラ「Snow」。
カシミールでの五つの冬。雪はすべてを白くし、やがて溶けて、その下にあるものを見せる。ソーラブ・フラはその両方を撮る。
Susan Philipsz. War Damaged Musical Instruments.
戦争で傷んだ十四の管楽器が、もう一度別れの合図を吹こうとする。いちばん聞こえるのは息。
ホンマタカシ。「Tokyo Obscura」。
黒い紙で覆った窓、テープでふさいだ隙間、街へ向いた小さな開口がひとつ。部屋はカメラになり、東京が逆さまに現れる。
タリン・サイモン「Paperwork and the Will of Capital」
国際的な調印式の写真から組み直した36の花束、アールスメールの花市場から集めた4,000点を超える標本、12台のコンクリートのプレス。
アピチャッポン・ウィーラセタクン「Fireworks (Archives)」
イサーンの彫刻公園の夜。花火が上がり、コンクリートの動物たちを一瞬照らし、また暗くなる。
ビル・ヴィオラ(Bill Viola)、キラ・ペロフ(Kira Perov)。「Martyrs (Earth, Air, Fire, Water)」。
四人、四つの元素、セント・ポール大聖堂の通路の奥に立つ四つの縦長のスクリーン。「Martyrs」は犠牲についての作品ではない。持ちこたえる人を見せる。
ダヤニータ・シン(Dayanita Singh)「Museum of Chance」
木の美術館、44種類の表紙をもつ一冊の本、ふたつのスーツケース。ダヤニータ・シンは写真の並びを偶然に委ねる。
カラ・ウォーカー(Kara Walker)。「A Subtlety, or the Marvelous Sugar Baby」。
白い砂糖で覆われたスフィンクスの女、糖蜜の跡が壁に残る倉庫に横たわる。甘さが、その歴史の前に置き直される。
リズ・デシェーヌ(Liz Deschenes)「Gallery 7」
カメラもなく、像もない。夜の光にさらした紙だけ。銀と青のパネルが部屋に立ち、通りすぎる人を映す。
ニューシャ・タヴァコリアン(Newsha Tavakolian)。「Blank Pages of an Iranian Photo Album」。
誕生日。大学での休み。カスピ海の岸辺での一日。イランのひとつの世代のアルバムのページ。いくつかはまだ空白のまま。
フィリダ・バーロウ(Phyllida Barlow)。「dock」。
安い素材でできた七つの彫刻が、百メートルの新古典様式のホールをふさぐ。来場者は回りこみ、身をかがめ、見上げなければならない。
ピエール・ユイグ(Pierre Huyghe)。「Untitled (Human Mask)」。
仮面とかつらをつけた猿が、もう客のいないバーを動きまわる。人がいなくなったあとも、習慣は続く。
プロペラ・グループ「The Living Need Light, the Dead Need Music」
メコンデルタの葬列には、ブラスバンド、雇われた泣き女、大道芸人がいる。悲しみと喜びが同じ行列を歩く。
カミーユ・アンリ(Camille Henrot)「Grosse Fatigue」
手が窓を次々とひらき、声が世界の誕生を唱える。カミーユ・アンロは、すべての知を集めようとすることがどれほど疲れるかを見せる。
ヒト・シュタイエル(Hito Steyerl)「How Not to Be Seen: A Fucking Didactic Educational .MOV File」
ヒト・シュタイエルは、見られない方法についての映像講義を作った。可笑しく、やがて恐ろしく、また可笑しい。
ジェームズ・タレル「Aten Reign」
グッゲンハイムのロタンダは、入れ子になった光の塊になった。色はとらえられないほどゆっくり変わる。作品は、ずっとそこにあったもの。壁と壁のあいだの空気。
ロール・プロヴォスト「Wantee」。
タイトルは、ある女性の口癖の問いから来ている。お茶はいかが。ロール・プロヴォストはそのまわりに架空の家族を作り、ターナー賞を受けた。
ヴォルフガング・ライプ「Pollen from Hazelnut」
二十年近くかけて集めたヘーゼルナッツの花粉が、MoMA の床に黄色い長方形として敷かれる。額もなく、台座もない。
草間彌生「Infinity Mirrored Room: The Souls of Millions of Light Years Away」。
扉が閉まる。まわりは鏡、足もとは水、頭上で明滅する光。およそ45秒後、扉がひらき、ふたたび有限の部屋に戻る。
ダヤニータ・シン(Dayanita Singh)「File Museum」
錆びた棚、袋、トランク、紐で束ねた紙の山。ダヤニータ・シンはインドのアーカイブを撮り、写真のために木のアーカイブを作った。
ハルーン・ファロッキ「Parallel I-IV」。
ビデオゲームの画像についての四本の映像。粗い線から、ほとんど本物に見える世界まで。ファロッキは、まだ何が欠けているのかを問う。
ラグナル・キャルタンソン(Ragnar Kjartansson)。「The Visitors」。
九人の音楽家が、古い屋敷の部屋にひとりずつ入り、一時間以上、ひとつの短い歌をくり返し歌う。
ランダム・インターナショナル(Random International)。「Rain Room」。
濡れずに雨の中へ歩いていく。「Rain Room」はカメラを使い、雨をひとりひとりのまわりで退かせる。そして問う。私たちは制御しているのか、見られているのか。
川内倫子(Rinko Kawauchi)「Ametsuchi」
毎年春、阿蘇の人々は祖先と同じように草原を焼く。川内倫子は煙の中に立ち、空を見上げる。
トーマス・ルフ「Photograms」
フォトグラムとは、印画紙に置いた物の影。トーマス・ルフは、物も紙も本当の暗室もないフォトグラムを作る。
ザネレ・ムホリ「Somnyama Ngonyama (Hail the Dark Lioness)」
たわしが頭飾りに、ラテックスの手袋が冠に、肌はより暗く焼かれる。ザネレ・ムホリは自分にカメラを向け、誰が誰を見るのかを問う。
李禹煥(Lee Ufan)「Relatum」
石は彫られない。鉄は曲げられない。李禹煥はそれらを並べるだけで、あとは間の空間にまかせる。
リサ・オッペンハイム(Lisa Oppenheim)「Smoke」
1913年の油田爆発の煙、戦時の空中偵察の煙、2011年のロンドン暴動の煙。オッペンハイムはそれをマッチとトーチで焼きつける。
川内倫子(Rinko Kawauchi)「Illuminance」
水たまり、手、壁にさす日だまり。「Illuminance」には物語がない。並べられた写真のリズムだけがある。
タシタ・ディーン。「FILM」。
ループする無音の十一分、記念碑のように直立する。タシタ・ディーンはフィルムについてのフィルムを撮ったのではない。フィルムをそれ自身の証人として立たせた。
草間彌生「Infinity Mirrored Room: Filled with the Brilliance of Life」
暗い水を細い道が横切る。来場者のまわりで、何百もの光の点が色を変え、鏡の中で増えていく。道はひとつだけ。そしてそれは扉へ戻る。
アイ・ウェイウェイ。「Sunflower Seeds」。
遠くからは灰色の野。近くでは、磁器の種の一粒一粒が、それぞれ形づくられ、描かれている。「Sunflower Seeds」は一と多を並べる。
キャサリン・オピー(Catherine Opie)「700 Nimes Road」
ラベンダー色のシャグラグの上の帽子箱。透明な箱の中のガウン。ベッドサイドテーブル。エリザベス・テイラーは一度も現れない。それでも、どこにでもいる。
クリスチャン・マークレー(Christian Marclay)「The Clock」
二十四時間の映像。画面の一分が、外の一分と一致する。映像を見ることは、時間を見ること。
ヤン・ヴォー(Danh Vo)「We The People」
自由の女神の原寸大の複製を、硬貨二枚を重ねたほどの薄さの銅、およそ250片に分けたもの。一度も組み立てられない。
ス・ドホ(Do Ho Suh)「Staircase-III」
薄い赤い布の階段が、見る人の頭上に吊るされている。誰も上れない。ス・ドホは家の一部をもう一度縫い、記憶として持ち運べるようにする。
「Future Beauty: 30 Years of Japanese Fashion」展
三宅一生、川久保玲、山本耀司、そして後に続いた人々。バービカンで、日本のファッションの三十年が世代を越えた対話として読まれる。
アイザック・ジュリアン「Ten Thousand Waves」。
二十三人の貝採りが、ひと晩の潮で溺れた。アイザック・ジュリアンは、九つのスクリーン、ひとりの女神、ひとつの街を通して彼らを呼び戻す。
森万里子(Mariko Mori)。「Tom Na H-iu」。
竹林の中の池に、背の高いガラスのかたちが静かに立つ。それが光るのは、遠くで星が死に、ほとんど見えない粒子をここへ送ったときだけ。
内藤礼、西沢立衛「Matrix」
絵もなく、像もない。床から染み出す水、ふたつの開口を抜ける風、そして座って眺める人々だけ。
ローザ・バルバ「The Hidden Conference」。
ローザ・バルバは35mm カメラを持って、ベルリン、ローマ、ロンドンの美術館の収蔵庫に入った。掛けられるのを待つ絵画や彫刻が、映画の出演者になった。
アピチャッポン・ウィーラセタクン「Primitive」
ナブアでは、軍が村を支配した年月について年長者たちはほとんど語らない。アピチャッポンは若者たちと暮らし、ともに宇宙船を作った。
バールティ・ケール(Bharti Kher)。「confess」。
外は暗い木と小さな窓。中では、何百ものビンディが渦を巻いて模様になり、天井から裸電球がひとつ吊るされている。
ビーケ・デポールテル(Bieke Depoorter)。「Ou Menya」。
ロシア語が少し書かれたメモ。扉がひらく。ソファがひと晩だけのベッドになる。翌朝、また先へ。
ヤン・ヘギュ「Series of Vulnerable Arrangements, Voice and Wind」
アルミのブラインド、扇風機、場所の名をつけた六つの工業用の香り。ヤン・ヘギュは、なぜ寺や海霧を瓶に詰めようとするのかを問う。
志賀理江子「螺旋海岸(Rasen Kaigan)」
写真家が海辺の村に住みつき、強いフラッシュとカラーで村の人々を撮る。やがて津波が来る。彼女は海が返してきた写真を集める。
モナ・ハトゥム(Mona Hatoum)。「Impenetrable」。
遠くからは、ぼんやり浮かぶ立方体。近くでは、何百本もの有刺鉄線の棒。誰も中に入れない。
リチャード・ロング「Cornish Slate Ellipse」
コーンウォールで切り出したスレートを、紐で印した楕円の中に立てて並べる。展示されるたびに、作品は最初から並べ直される。
シーラ・ゴウダ「Behold」。
カルナータカでは、事故よけに数本の髪を車のバンパーに結ぶ。シーラ・ゴウダはその髪をほどき、四キロメートルの縄に編み、そこにバンパーを吊るした。
ゾーイ・レナード。「Analogue」。
11年、古いローライフレックス、閉店間近の小さな店。ゾーイ・レナードは、それらが記憶に変わる前に撮った。
クリスチャン・ボルタンスキー(Christian Boltanski)「Les Archives du Cœur」
言葉も絵もないアーカイブ。かつてそこを通った人々の心音だけ。
オラファー・エリアソン「The New York City Waterfalls」。
高さ十階近い四つの人工の滝が、川の水を川へ返す。オラファー・エリアソンはイースト川に、注意のほかは何も加えなかった。
ロジャー・ハイオンズ「Seizure」。
エレファント&キャッスルの小さなフラット。水で満たし、それから抜いた。残ったのは青い結晶の洞窟と、浴槽。
ゾーイ・レナード「You see I am here after all」。
ひとつの滝、四千枚近い絵はがき、壁に沿ったひとつの地平線。ゾーイ・レナードは、ひとつの場所がどれほど見られてきたかを示す。
ツァオ・フェイ(Cao Fei)。「RMB City: A Second Life City Planning by China Tracy」。
アバターの China Tracy を通して、ツァオ・フェイは仮想世界にしか存在しない都市を計画した。六分の映像がその最初のスケッチ。
石内都「ひろしま hiroshima」。
一着のドレス、ひと組の手袋、一枚のブラウス。石内都は広島を惨事として撮らない。ひとりひとりを、その人が着ていたものを通して撮る。
ロニ・ホーン「Vatnasafn / Library of Water」。
本のない図書館。かわりに、アイスランドの氷河の水が24本のガラスの柱に立ち、天気の言葉を敷いた床の上に並ぶ。
トレヴァー・パグレン「The Other Night Sky」
見慣れた星座のあいだに、細い光の筋がある。どの政府も公表しない偵察衛星。パグレンはそれがいつ通るかを割り出した。
アニッシュ・カプーア(Anish Kapoor)「Sky Mirror」。
ニューヨークの真ん中に、凹面の鋼鉄の鏡。見られることを求めない。空を逆さまに映す。
蔡國強(Cai Guo-Qiang)「Head On」
先頭が壁にぶつかる。群れは来つづける。2006年のベルリンで、蔡國強は終わらない衝突を仕立てた。
カールステン・ヘラー(Carsten Höller)「Test Site」
五本の螺旋のチューブ、身をまかせるひとり、数秒のめまい。「Test Site」は、身体が思考より先に行くことを許されたとき何が起きるかを問う。
ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter)「Cage」
幅ほぼ三メートルの正方形のキャンバス六枚。リヒターがジョン・ケージを聴きながら描いた。筆の跡はほとんどない。スキージが絵具を引きはがし、下の古い色がのぞく。
杉本博司(Hiroshi Sugimoto)「Lightning Fields」
火花がフィルムに触れ、木のかたちを残す。カメラは何も見ていない。あるのは跡だけ。
ミカエル・スボツキー(Mikhael Subotzky)。「Beaufort West」。
ケープタウンとヨハネスブルグのちょうど中間の町。車が通りすぎる。刑務所はロータリーの中に立つ。とどまる人々はそのまわりで暮らす。
ラファエル・ロサノ=ヘメル(Rafael Lozano-Hemmer)「Pulse Room」
センサーを握ると、電球があなたの心拍に合わせて光る。手を離すと、その脈はグリッドに加わり、先の脈をさらに遠くへ押しやる。
ソーラブ・フラ「Life is Elsewhere」。
母、犬、いくつも鍵のかかった家。息子はカメラを持ち、その内側にいながら、出ていきたいと願う。
ブルース・ナウマン(Bruce Nauman)。「Raw Materials」。
見るもののない広大なホール。近くや遠くの声だけが、人が歩くにつれて重なりあう。
ソル・ルウィット「Wall Drawing #1136」。
ウォールドローイングは塗りつぶされ、別の場所で別の手によってまた描かれうる。保たれるのは、図と手紙と証明書。
ヴォルフガング・ティルマンス「Freischwimmer 54」。
カメラもネガも、撮るものもない。暗室で紙の上を通りすぎる光と、あとに残る色の軌跡だけ。
アニッシュ・カプーア(Anish Kapoor)「Ishi's Light」。
外は石の色の殻。中は黒に近い赤。そこに立つ人を、別の誰かとして返す。
アンリ・サラ(Anri Sala)「Dammi i colori」。
ポスト共産主義の都市、新しい色に塗られた灰色の壁。アンリ・サラは夜のティラナを撮り、色に何ができるかを問う。
ディン・Q・レ(Dinh Q. Lê)「From Vietnam to Hollywood」
ディン・Q・レは写真を細く切り、ござのように編んだ。ハリウッド映画のコマと、名もないベトナムの顔が一枚を分けあう。
オラファー・エリアソン「The weather project」。
黄色いランプの半円、広大な鏡の天井、漂う霧。人々は床に寝そべり、頭上の自分たちを眺めた。
オラファー・エリアソン「Yellow versus Purple」。
ガラスの円盤、ランプ、小さなモーター。黄色い影が壁の上でずれ、紫の跡が部屋をめぐり、見る人はそのあいだに踏みこむ。
タリン・サイモン「An American Index of the Hidden and Unfamiliar」
放射性のカプセル、冬眠する熊、CIA 本部。どの写真にもキャプションがつき、見えないところにある物の目録の一項目のよう。
アニッシュ・カプーア(Anish Kapoor)「Marsyas」。
三つの鋼鉄の輪、タービン・ホールに張りわたされた暗赤色の一枚の膜。全体を見わたせる場所はない。見る人は、部分的な出会いから作品を組み立てる。
オマー・ファスト(Omer Fast)「CNN Concatenated」。
一語ごとに違う顔、違うニュース番組から来ている。つなぎあわせると、そのどれもが一度も言わなかったことを言う。
リクリット・ティラヴァーニャ「untitled (he promised)」。
美術館の中の、光る家の骨組み。長く見つめるものはほとんどない。作品は、人が中に入り、一緒に何かをしたときに初めて始まる。
「Tribute in Light」。
一年にひと晩、88のライトが光でふたつの塔を建て直す。夜明けに消える。空白が戻る。
シルド・メイレレス「Babel」
ラジオでできた塔。すべてが小さな声で、いっせいに話している。誰にも聞きとれない。それこそが、作品が聞くよう求めるもの。
ジェレミー・デラー(Jeremy Deller)。「The Battle of Orgreave」。
オーグリーヴでピケ隊と警官隊が衝突してから十七年、ジェレミー・デラーは、そこにいた多くの人々とともに、それを同じ野に呼び戻した。
ジュン・グエン=ハツシバ(Jun Nguyen-Hatsushiba)「Memorial Project Nha Trang, Vietnam」
ニャチャン沖の海底で、漁師たちがシクロを砂の上で引き、息継ぎに浮かび、また潜って引く。動きつづける十三分の記念碑。
ラトーヤ・ルビー・フレイジャー(LaToya Ruby Frazier)。「The Notion of Family」。
三世代の女性、衰えていくひとつの鉄鋼の町。フレイジャーは、ある場所の歴史がそこに暮らす人々の身体に書かれていることを見せる。
マイケル・ランディ(Michael Landy)「Break Down」
十四日、100メートルのベルトコンベア、7,227の品。終わったとき、マイケル・ランディは何も持っていなかった。
レイチェル・ホワイトリード(Rachel Whiteread)「Untitled (Stairs)」
三つの踊り場のある階段を、中まで詰めて型どりし、九十度回した。レイチェル・ホワイトリードは新しい家を、見つけたときのままに保った。
リチャード・ミズラック「On the Beach」
岸もなく、水平線もない。水と、そこに浮かぶ小さな身体だけ。ミズラックは上から見下ろす。
川内倫子(Rinko Kawauchi)「Utatane」
最初の写真集、うたた寝を意味するタイトル。「Utatane」は、目を開けたばかりの、まだすっかり覚めていない目で日常を見る。
石内都「Mother's」。
母の顔はない。口紅、下着、靴、まだ彼女の髪が残るヘアブラシだけ。そしてそれらの物から、ひとりの人が現れる。
マーティン・クリード(Martin Creed)。「Work No. 227: The lights going on and off」。
部屋には何もない。ついては消える明かりだけ。そして、自分が部屋に立っていると初めて気づく、見る人。
マイク・ネルソン(Mike Nelson)。「The Coral Reef」。
扉は別の部屋へ、さらに別の部屋へと続く。椅子はある。書類もある。人はいない。来場者は、不在の暮らしのあいだで迷う。
米田知子「Scene」
浜辺。森。穏やかな草の丘。米田知子はかつて戦争があった場所を撮り、残りはタイトルに語らせる。
トニー・アウスラー「The Influence Machine」
煙に映る顔、壁を叩く手、暗い公園に漂う声。トニー・アウスラーは、私たちのかわりに話す機械の歴史を語る。
Adam Fuss. My Ghost.
煙がかたちを保つのは一秒に満たない。アダム・フスはそれを印画紙に触れさせ、その一秒をとどめる。
アレック・ソス(Alec Soth)。「Sleeping by the Mississippi」。
ウィノナのハウスボート。ヴァーサで模型飛行機を持つ男。ファウンテンシティの墓地。川がそれらをつなぐ。
アン・マイ・レー。「Small Wars」。
週末のヴァージニアの森で、古い軍服を着たアメリカ人たちが、もう一度戦争をする。アン・マイ・レーは、ベトコンのゲリラ役を振られながら彼らを撮る。
アンドレアス・グルスキー「99 Cent」
何千もの安い商品が、天井まできちんと積まれている。遠くからは一面の色。近くでは、菓子の袋ひとつひとつ。
ジャネット・カーディフ(Janet Cardiff)。「The Missing Voice (Case Study B)」。
ヘッドフォンをつけ、再生を押し、ひとりの女性の声についていく。ジャネット・カーディフは、イーストロンドンの散歩を、行方不明の女性の物語に変える。
ルイーズ・ブルジョワ「Maman」
細い八本の脚、大理石の卵を抱えた袋、母を意味する名。「Maman」は守ると同時に、不安にさせる。
マーク・レッキー(Mark Leckey)。「Fiorucci Made Me Hardcore」。
1960年代末から1980年代末まで、ダンスフロアの光の下で回る身体。マーク・レッキーは、インターネットが誰にでもそうする前に、それらを集めた。
ドリス・サルセド(Doris Salcedo)「Untitled」
ひとつの家具、その内側をセメントで満たす。引き出しはひらかない。もう何も収められない。
中谷芙二子「Fog Sculpture #08025 (F.O.G.)」
一時間に一度、美術館の横の池から霧が立ちのぼり、すべてを覆い、晴れていく。風、湿度、気温が作品のかたちを決める。
米田知子「Between Visible and Invisible」
古い眼鏡がページの上に置かれ、レンズ越しに数行がはっきりする。米田知子は、その持ち主がかつて読んだものを撮る。
トレント・パーク「Dream/Life」
日よけの下で雨宿りする男。ビルの影に溶けていく会社員。トレント・パークのシドニーは、現実であり夢のようでもある。
ボリス・ミハイロフ(Boris Mikhailov)。「Case History」。
1990年代末のハルキウの路上生活者を写した四百枚を超える写真。ボリス・ミハイロフは彼らに金を払い、ポーズをとらせ、見る人に目をそらさせない。
エドワード・バーティンスキー(Edward Burtynsky)「Oil」
油田、製油所、高速道路、船の解体場を撮った十二年。石油そのものは一度も写らない。石油が土地にすることだけが写る。
ジェニー・ホルツァー(Jenny Holzer)。「Installation for Bilbao」。
グッゲンハイム・ビルバオの湾曲した展示室に、流れる光の柱が九本立つ。言葉は止まらず、失われた誰かについて、三つの言語で語る。
ローラ・レティンスキー「Hardly More Than Ever」。
食事は終わり、客は席を立った。レティンスキーは食卓に残されたものを撮り、消えていくことについての静物に変える。
ピピロッティ・リスト(Pipilotti Rist)。「Ever Is Over All」。
青いドレスの女性が微笑みながら通りを歩き、花で車の窓を割る。その横で、花の野がゆっくりと揺れる。
リチャード・ミズラック「Golden Gate」
同じ橋、同じポーチ、いくつもの朝と夕。違うのは光だけ。ミズラックはそのひとつひとつを記録した。
サミュエル・フォッソ「Tati」
タチの店内に写真スタジオを開くよう招かれたサミュエル・フォッソは、レンズを自分に向け、店の棚の服をまとって十の人物になった。
サントゥ・モフォケン「The Black Photo Album / Look at Me」
南アフリカの黒人家族を写した写真館の肖像のスライド八十枚。スーツ、長いドレス、念入りなポーズ。彼らは自分がどう見られるかを選んだ。
Susan Derges. River Taw.
長さ二メートル近い印画紙が、夜の川の底に横たわる。一度の閃光。水が自らを焼きつける。
ヴォルフガング・ティルマンス「Concorde Grid」
五十六枚の写真、一機の飛行機、そして一度もそれに乗らなかった写真家。「Concorde Grid」は地上から速さを見る。
アレッサンドラ・サンギネッティ(Alessandra Sanguinetti)。「On the Sixth Day」。
ウサギ、馬、豚、ガチョウ、子羊、牛。ブエノスアイレス近くの農場で、動物の生と死があからさまに起きる。
ビル・ヴィオラ(Bill Viola)。「The Crossing」。
ひとりの男が闇からゆっくり歩み出る。片側では水が落ちつづけ、やがて彼を消す。もう片側では火が立ちのぼる。そしてすべてがまた始まる。
ダン・フレイヴィン(Dan Flavin)「untitled (Marfa project)」
U字形の建物が六棟、それぞれに廊下がふたつ、どの廊下にも光の仕切り。色は棟から棟へと移り、やがて四つが出会う。
モナ・ハトゥム(Mona Hatoum)。「Present Tense」。
床に並べた二千二百個のナーブルス石鹸。小さな赤いビーズがその上に境界を描く。石鹸は溶ける。その香りはすぐにそれとわかる。
ナム・ジュン・パイク(Nam June Paik)。「Electronic Superhighway: Continental U.S., Alaska, Hawaii」。
州ごとにネオンの輪郭、輪郭ごとに流れる映像。ナム・ジュン・パイクは、インターネットが家庭に入ってくるちょうどそのとき、テレビでアメリカを描いた。
畠山直哉(Naoya Hatakeyama)。「Blast」。
石灰岩の崖が爆発し、シャッターが千分の一秒で切られる。岩はまだ落ちていない。埃はまだ落ちつかない。人の目には、これは見えない。
リチャード・セラ(Richard Serra)「The Matter of Time」
八つの鋼鉄のかたち、ひとつの長い展示室、狭まり、広がる通路。リチャード・セラは時間を見せない。その中を歩かせる。
ウタ・バース(Uta Barth)。「Ground」。
カメラは何にも焦点を合わせない。壁も額もたんすも、すべてぼやける。残るのは部屋の空気と、見るという行為そのもの。
ジャン・ホァン「12 Square Meters」
公衆便所に、蜂蜜と魚油を全身に塗った男がじっと座る。蝿が群がる。一時間後、彼は池へ歩いて入る。
サイ・トゥオンブリー(Cy Twombly)「Quattro Stagioni (A Painting in Four Parts)」
春、夏、秋、冬を、並べた四枚のキャンバスに。流れる絵具、手書きの文字、まだ濡れて見える跡。トゥオンブリーは、一年とひとつの生を通りすぎる時間を描く。
ダグラス・ゴードン(Douglas Gordon)「24 Hour Psycho」
二時間に満たない映画を、ひと昼とひと晩に引き延ばす。誰も全部は見ない。おそらくそれこそが、ゴードンの望んだこと。
マーク・パワー(Mark Power)。「The Shipping Forecast」。
ドーバー。ファストネット。ジャーマン・バイト。イギリスの人々が子どもの頃からラジオで聞き、ほとんど誰も見たことのない名前。マーク・パワーはそのひとつひとつへ行った。
レイチェル・ホワイトリード(Rachel Whiteread)「House」
壁をはがされ、内部空間のコンクリートの型だけが残った家。「House」はイーストロンドンに三か月足らず立ち、そして消えた。
スティーヴ・マックイーン「Bear」。
音はない。ふたつの身体、一筋の光、交わされるまなざしだけ。沈黙の中で、見る人は自分の息を聞きはじめる。
ジェフ・クーンズ(Jeff Koons)。「Puppy」。
鋼鉄、土、花の咲く植物。けっして静止しない巨大な子犬。その毛並みが生きているから。
リネケ・ダイクストラ(Rineke Dijkstra)「Beach Portraits」
十代の子、水着、背後の海と空。隠れる場所はない。ダイクストラは、まだ立ち方を知らない身体を撮る。
Abelardo Morell. Camera Obscura.
空っぽの部屋の壁一面に、マンハッタンが逆さまに横たわる。外が小さな穴から入ってくる。
アグネス・マーティン。「Untitled #5」。
六フィート四方のキャンバス、暗い灰色の四本の帯、わずかに揺れる縁。アグネス・マーティンがガリステオで描いた、最後の灰色の絵のひとつ。
アーニャ・ガラッチオ「preserve 'beauty'」
大きなガラス板の裏に押し当てた生花を、そのまま枯れるにまかせる。作品は花ではない。色と香りが変わっていく数週間である。
コーネリア・パーカー(Cornelia Parker)「Cold Dark Matter: An Exploded View」
木の小屋、誰も捨てられなかった物、爆発。それから焦げた破片をひとつずつ裸電球のまわりに吊るし、その影が壁を覆う。
フェリックス・ゴンザレス=トレス(Felix Gonzalez-Torres)「"Untitled" (Portrait of Ross in L.A.)」
ギャラリーの隅に、色とりどりの包み紙の飴の山。来場者はひとつずつ持っていく。肖像は小さくなり、また補われる。
畠山直哉(Naoya Hatakeyama)。「Lime Works」。
日本各地の石灰とセメントの工場を、夜が明けきる前に撮る。どの面も細かな白い粉をまとう。都市はここから始まる。
Susan Hiller. From the Freud Museum.
ガラスケースの中に、五十の段ボール箱。それぞれに小さな物がいくつかと、ラベル。ひとつずつならありふれたもの。集まると、記憶の地図になる。
キャリー・メイ・ウィームス(Carrie Mae Weems)。「Kitchen Table Series」。
同じテーブル、同じランプ、同じカメラの角度。人だけが来ては去る。台所のテーブルが、ひとつの人生の舞台になる。
クリスチャン・ボルタンスキー(Christian Boltanski)「The Reserve of Dead Swiss」
四十二枚の死者の写真。名前もなく、物語もない。それぞれにランプが覆いかぶさる。ボルタンスキーはそれを「保存庫(reserve)」と呼んだ。
イリヤ・カバコフ(Ilya Kabakov)「Labyrinth (My Mother's Album)」
細い通路、壁に沿って七十六の額。明るい町の写真と、そうではないと語る母の言葉。
レベッカ・ホルン(Rebecca Horn)。「Concert for Anarchy」。
逆さに吊られたピアノが、長いあいだ黙っている。やがて蓋がはじけるようにひらき、鍵盤が飛び出し、壊れた和音が鳴る。そして何事もなかったかのように、すべてが戻る。
ガイ・ボールドウィン「On Leather Pants」。
ぴったりとした黒い革のパンツ一本。ガイ・ボールドウィンにとって、それは服以上のもの。言葉であり、鎧であり、帰属のしるし。
ルイーズ・ブルジョワ「Cell (Eyes and Mirrors)」
鉄の網とガラス板の檻。中では黒い石の目が外を見つめ、鏡が鏡を映す。見る人は外にとどまり、視線だけが中に入ることを許される。
ロバート・ゴーバー「Untitled」。
部屋の隅で、壁から人の脚が一本出ている。ズボン、毛の靴下、革靴、毛の生えた肌の一部。蝋でできている。あまりに本物らしく、見る人は後ずさりする。
トーマス・シュトゥルート「Museum Photographs」
絵の前の人々。そして、絵の前の人々を写した写真の前の人々。トーマス・シュトゥルートは、美術館へ行くことを主題にした。
アンゼルム・キーファー「Lilith」
上から見た都市、灰色の灰に覆われ、キャンバスに銅線が走る。キーファーはそれを、ユダヤの伝説の破滅の悪魔の名で呼ぶ。
山本昌男(Masao Yamamoto)。「A Box of Ku」。
山本昌男は小さなプリントを作り、それを古びさせ、箱に収める。一枚一枚が物である。箱全体は、空白を抱えている。
ロバート・メイプルソープ「Calla Lily」。
一本の茎、巻いた一枚の花弁、無地の背景。メイプルソープは、彫像を撮るようにカラーリリーを撮った。
グレッチェン・ベンダー「Dumping Core」。
13の画面が、ロゴと広告と戦争のニュースを同時に明滅させる。グレッチェン・ベンダーはテレビを速く流しすぎる。よりはっきりと見えるように。
ミエレ・レイダーマン・ユケレス(Mierle Laderman Ukeles)「Touch Sanitation Show」
ごみの中継施設の中での展覧会。街を清潔に保つ人々と、何年も握手をつづけたあとに。
Peter Fischli と David Weiss。Equilibres (Quiet Afternoon)。
おたま、椅子、瓶が、数秒のあいだ互いの上に立つ。そして倒れる。残るのは写真だけ。
サリー・マン「Immediate Family」。
サリー・マンは家族の農場で、三人の子どもを八年間撮った。写真はやさしく、そして落ち着かない。議論がやんだことは一度もない。
Joseph Beuys. The End of the Twentieth Century.
三十一個の玄武岩の塊が床に散らばる。それぞれに、フェルトと粘土を張った円錐形のくぼみがあり、石の栓がもとの位置に戻されている。
ラリー・サルタン(Larry Sultan)。「Pictures from Home」。
息子がカメラを持って帰郷する。両親はモデルであり、批評家でもある。家族の記憶はどう築かれるのか。
マーティン・パー(Martin Parr)。「The Last Resort」。
泣く子ども、砂の上のごみ、コンクリートの上に寝そべる日光浴の人々。マーティン・パーは、派手な色と直接のフラッシュで海辺の保養地を撮った。
トゥンガ(Tunga)。「Trança」。
髪は軽く、鉛は重い。トゥンガは鉛を長いおさげに編み、ゆずりあわないふたつの感覚のあいだに見る人を置いた。
ジョー・スペンス(Jo Spence)。「The Picture of Health?」。
ひとりの女性がカメラを持って病院へ入る。ジョー・スペンスは自分の身体を撮り、あらためて問う。誰が見るのか、誰が語るのか。
ソフィ・カル「The Hotel」。
乱れたままのベッド、洗面台の横の香水、スーツケースの中の手紙。客は出かけている。持ち物はとどまる。
アントニー・ゴームリー「Bed」
蝋を染みこませたパンを重ねた塊。真ん中に、横たわる身体のかたちのくぼみがふたつ。食べることでつくられた。「Bed」は不在で描かれた肖像。
ドナルド・ジャッド(Donald Judd)「15 untitled works in concrete」
同じ大きさの中空のコンクリートの箱が、草の上に一列に並ぶ。一日の時間ごとに、影がそれらをもう一度描く。
ジュゼッペ・ペノーネ(Giuseppe Penone)「Tree of 12 Metres」
四角く製材された一本の角材。ペノーネは節をたどりながら年輪をはがしていき、やがて材木の中から若い木が現れる。
杉本博司(Hiroshi Sugimoto)「Seascapes」
ひとつの水平線、上に空、下に海。杉本博司は四十年にわたり、世界中でその構図をくり返してきた。
ロニ・ホーン「Gold Field」。
ほとんど厚みのない純金の一枚が、床にじかに置かれる。台座も額も物語もない。
テッチン・シェイ「One Year Performance」
一時間ごとに打刻し、打刻のたびに写真を一枚、一年間。伸びる髪が、ふたつめの時計になる。
グラシエラ・イトゥルビデ(Graciela Iturbide)「Juchitán de las Mujeres」
生きたイグアナを冠にした女性。グラシエラ・イトゥルビデは、フチタンを、その町のリズムを保つ女性たちを通して撮った。
ナン・ゴールディン(Nan Goldin)。「The Ballad of Sexual Dependency」。
部屋、バー、ベッド、なじみの顔。一枚一枚が数秒とどまり、音楽に合わせて次へ譲る。
リチャード・ミズラック「Desert Cantos」
砂漠は空っぽに見える。よく見ると、そうではない。ミズラックは四十年以上、人が乾いた土地に残すものを撮りつづけてきた。
ソフィ・カル「The Sleepers」。
八日間、二十七人、一度も空かないベッド。ソフィ・カルはそばに座り、一時間ごとに写真を撮り、見知らぬ人々が眠るのを見つめた。
ダラ・バーンバウム(Dara Birnbaum)「Technology/Transformation: Wonder Woman」
爆発、回転、スーパーヒーロー。バーンバウムはテレビの数秒をとり、魔法がその枠を見せるまでくり返す。
ガブリエーレ・バジリコ「Milano. Ritratti di fabbriche」
人のいない休日、強い日差し、鋭い影。ガブリエーレ・バジリコはミラノの工業地区を歩き、工場をひとつずつ、顔のように撮った。
ジョエル・スタンフェルド(Joel Sternfeld)。「American Prospects」。
燃える家と、道ばたの売り場でかぼちゃを選ぶ消防士。スターンフェルドは何も演出しなかった。両方が見えるほど、十分に離れて立った。
マグダレーナ・アバカノヴィッチ(Magdalena Abakanowicz)「Embryology」
束ね、縛り、縫いあわせた麻布が、やわらかく丸いかたちになり、床に横たわる。繭のように、卵のように、名もない身体の器官のように。
マリオ・メルツ(Mario Merz)。「Igloo, Do We Go Around Houses, or Do Houses Go Around Us?」。
六十五枚のスレート板が、鋼鉄の枠のまわりに螺旋を描く。掃除してはならない、汚れて割れたガラス七十四枚。そしてひとつの問い。私たちが家のまわりを回るのか、家が私たちのまわりを回るのか。
マイク・マンデル(Mike Mandel)とラリー・サルタン(Larry Sultan)。「Evidence」。
アーカイブの写真五十九枚、キャプションはひとつもない。客観的な証拠が、謎に変わる。
杉本博司(Hiroshi Sugimoto)。「Dioramas」。
剥製の動物、描かれた空、人工の芝。杉本博司のレンズを通すと、それらは野生の生きた一瞬になる。
杉本博司(Hiroshi Sugimoto)「Theaters」
二時間の映画、一回の露光。すべての像が積み重なって白い光の塊になり、まわりの部屋はその同じ光から浮かびあがる。
Peter Hujar。Portraits in Life and Death。
カメラの前で安らかに横たわる二十九人の友人。そのあとに、パレルモのミイラ。ピーター・フジャーが生前に作った唯一の本。
Sunil Gupta. Christopher Street.
1976年、ニューヨークのひとつの通りで撮られた六十枚。昼の光の中で立ち、歩き、互いを見つめる男たち。変わる前に記録された通り。
フランチェスカ・ウッドマン「Space²」
写真学生が美術館の展示ケースに入り、シャッターを開く。身体はぶれる。部屋は鮮明なまま。
マーサ・ロスラー(Martha Rosler)。「Semiotics of the Kitchen」。
ロスラーは台所の道具をひとつずつ手に取り、名前を言い、間違った使い方をする。六分の白黒映像。台所はもう安全な場所ではない。
深瀬昌久(Masahisa Fukase)。「Karasu」。
七年間のカラス。暗いプリント、粗い粒子、雪と黒い翼。深瀬昌久はそれを、自分自身についてのシリーズと呼んだ。
ニコラス・ニクソン(Nicholas Nixon)「The Brown Sisters」。
四人の姉妹、変わらないひとつの並び順、一年に一枚。四十年以上のあいだ、変わるのは彼女たちの顔に刻まれる時間だけ。
トニー・クラッグ「Stack」
壊れたレンガ、余った木材、古い雑誌を積み上げた立方体。その縁を見ると、発掘の壁のような地層が見える。
ルイス・ボルツ(Lewis Baltz)「The New Industrial Parks near Irvine, California」
正面から撮った工場の外観。人はおらず、劇的な影もない。見るべきものがない。だからこそ、よく見なければならない。
マリーナ・アブラモヴィッチ(Marina Abramović)。「Rhythm 0」。
テーブル、七十二の物、六時間じっと立つひとりの女性。「Rhythm 0」が測るのは作家の忍耐ではない。見ている人々である。
ナム・ジュン・パイク(Nam June Paik)。「TV Garden」。
本物の植物、本物の葉、本物の土。そのあいだで、大小さまざまなスクリーンが同じテープを明滅させる。咲くのが光である庭。
ロバート・アダムス「The New West」。
壮大な峡谷も、赤い夕日もない。屋根、電柱、ならした道、そしてその奥にまだ立つ山々だけ。ありのままの西部。
クリス・キリップ(Chris Killip)「In Flagrante」
浜で石炭を拾う人々、崖の下の漁村、工場が閉じたあとの通り。クリス・キリップは十年以上、イングランド北東部を撮った。
ナンシー・ホルト(Nancy Holt)。「Sun Tunnels」。
砂漠に X 字に置かれた四本のコンクリートの筒。夏至と冬至には、太陽がその中で昇り、沈む。ほかの日には、光が小さな穴から落ちる。
スティーヴン・ショア「Uncommon Places」。
ロサンゼルスの交差点。ダイナーのテーブルの朝食。モーテルの部屋。特別なものは何もない。それを最大の精度で撮る。
ベルント・ベッヒャー(Bernd Becher)、ヒラ・ベッヒャー(Hilla Becher)。「Water Towers」。
九つの給水塔、同じ角度、同じ灰色の光で並ぶ。十分に長く見ていると、ひとつひとつの違いが見えてくる。
アーヴィング・ペン「Cigarettes」。
ニューヨークの歩道で踏みつぶされた、半分燃えた吸い殻。ペンはそれを彫刻ほどの大きさで撮り、貴金属でプリントした。
クラウディア・アンドゥハル(Claudia Andujar)「The Yanomami」
レンズにワセリン、オイルランプ、赤外線フィルム。クラウディア・アンドゥハルは見えないものを撮ろうとした。ヤノマミの夢と精霊の世界。
森山大道(Daido Moriyama)「Stray Dog, Misawa」(三沢の犬)
もつれた毛、警戒する目、道に立ってふり返る。1971年のある朝、森山大道はその犬に出会い、自分自身を見た。
ルイジ・ギッリ「Kodachrome」
ポスターが空の半分を覆う。地図が風景のかわりに立つ。ギッリは、気づかぬうちに私たちが囲まれて暮らす像の層を撮る。
深瀬昌久(Masahisa Fukase)。「Family」。
深瀬昌久は父の写真館で、家族を毎年撮った。背景幕の前に立つ人が、誰もいなくなるまで。
ダイアン・アーバス(Diane Arbus)。「A box of ten photographs」。
十枚の写真、透明な箱、五十セットの予定、生前に売れたのは四セットだけ。アーバスは、残す価値のあるものを選んだ。
ラルフ・ユージン・ミートヤード(Ralph Eugene Meatyard)。「The Family Album of Lucybelle Crater」。
全員が仮面をつけ、ひとつの名前を分けあう家族アルバム。ミートヤードは、いちばん近い人をどうやって見分けるのかを問う。
ロバート・スミッソン「Spiral Jetty」。
1970年4月、ロバート・スミッソンは六千トンを超える黒い玄武岩をユタの塩湖に押し出させ、反時計回りの螺旋をつくった。それ以来、水と塩と時間が残りを担ってきた。
リンダ・ベングリス「Quartered Meteor」
1969年の素材の流れを、六年後に鉛で鋳造する。動いていたものが、重く、静かにとどめられる。
ヤニス・クネリス(Jannis Kounellis)。「Untitled」。
二本の支柱が壁に寄りかかり、四本の棒に生の羊毛が掛けられる。クネリスは絵画をやめていた。それでも羊毛で、ひとつの絵を描いた。
Josef Koudelka. Exiles.
寝袋、一足の靴、カメラ。家のない十五年。「Exiles」はそのあとに残ったもの。
ピーノ・パスカーリ(Pino Pascali)。「Trappola」。
1968年、ピーノ・パスカーリは鍋を磨くスチールウールで、高さ四メートルの罠を作った。宙に吊られ、床に広がる。半分は漁網、半分はドレス。
エヴァ・ヘス(Eva Hesse)「Addendum」
上には、注意深く数えられた連なり。下には、自由に垂れて床でとぐろを巻く紐。ヘスは両方をひとつの作品に入れた。
アーヴィング・ペン「Flowers」。
大きくひらいたチューリップ、いまにも落ちそうなケシ。ペンは花をいちばん美しいときではなく、いちばん本当のときに撮った。
ミケランジェロ・ピストレット(Michelangelo Pistoletto)「Venus of the Rags」
ヴィーナスがこちらに背を向け、古い色とりどりの服の山に顔をうずめる。長く続くものが、捨てられたものと向きあう。
カール・アンドレ(Carl Andre)。「Equivalent VIII」。
百二十個の耐火レンガ、二段、床に平らに。台座も彫りもない。問いはこうだ。私たちはそこに何を見るのか。
ダン・フレイヴィン(Dan Flavin)「'monument' for V. Tatlin」
オフィスで使うような白い蛍光管が、塔のように頂へ段をなして上がる。ダン・フレイヴィンはそれを、引用符つきで記念碑と呼んだ。
エリオ・オイチシカ「Tropicália, Penetrables PN 2 'Purity is a myth' and PN 3 'Imagetical'」。
砂、砂利、植物、布の小屋の道を、裸足で歩く。オイチシカの「Tropicália」は足と手と鼻を求め、ブラジルのひとつの運動に名を与えた。
細江英公。「Kamaitachi」。
踊り手が田んぼを走り、跳び、農家の壁の陰に隠れる。細江英公は、東北の農村で過ごした自らの幼年期の伝説を撮る。
Joseph Kosuth. Clock (One and Five), English/Latin Version.
壁掛け時計、その写真、英語とラテン語の定義。コスースはそれらを一列に掛け、本当の物はどこにあるのかを見る人に問わせる。
ロバート・モリス「Untitled」。
高さほぼ一メートルの、鏡張りの立方体が四つ。自分の色をもたない。床の色、壁の色、まわりを歩く人の色をとる。
ロマン・オパルカ「Détail 1520432 to 1537871」。
1520432から1537871まで、小さな白い数字で覆われたキャンバス。像もなく、ほかの色もない。一生ほど長い数え上げの、ひと区間だけ。
マルセル・ブロータース(Marcel Broodthaers)。「Casserole and Closed Mussels」。
木の取っ手のついた鉄の鍋。蓋が持ち上がるほど高く積まれた貝殻。食べるものは何もなく、貝殻だけ。そして、私たちが芸術作品と呼ぶものについての問い。
マーク・ロスコ(Mark Rothko)。「Rothko Chapel」。
ヒューストンの一室に、空の光に照らされた黒に近い十四枚の絵。ロスコは1967年に描き終えたが、それが掛けられるのを見ることなく亡くなった。
リー・フリードランダー「Self-Portraits」。
歩道の影、窓の映りこみ、フレームの端の半分の顔。リー・フリードランダーは六十年以上、自分を撮りつづけた。全身が写ることはまれ。
グスタフ・メッツガー「Recreation of First Public Demonstration of Auto-Destructive Art」
枠に張ったナイロンの布。酸が触れると、布はひらきはじめる。かたちは、素材が消えることでつくられる。
ピエロ・マンゾーニ(Piero Manzoni)。「Artist's Breath」。
マンゾーニは風船をふくらませ、木の板に据えつけた。息はもうない。残るのは、しわの寄ったゴムの切れ端。貼りついたまま。
イヴ・クライン「IKB 79」。
像もなく、線もなく、タイトルもない。画面全体を覆う青だけ。クラインは見る人に、ひらかれた空間の前に立つように、その前に立ってほしかった。
マーク・ロスコ(Mark Rothko)。「Black on Maroon」。
長さ四メートル半を超える横長のキャンバス、深い栗色の上に黒。ロスコはフォー・シーズンズのためにそれを描き、そこにはふさわしくないと決めた。
アンリ・マティス(Henri Matisse)。「The Snail」。
マティスはカタツムリを二本の指でつまみ、何度も描いた。やがて殻を手放し、螺旋を残し、はさみを取った。
ヴィヴィアン・マイヤー「Self-portraits」(セルフポートレート)。
歩道の影、ショーウィンドウの顔。ヴィヴィアン・マイヤーは何度も自分を撮ったが、正面から撮ることはまれだった。
バーネット・ニューマン。「Adam」。
高さ二メートルを超える土色の面に、縦に走る三本の赤い帯。ニューマンはそれを「Adam」と呼んだ。土と赤に近いヘブライ語の名。
ジャクソン・ポロック「Summertime: Number 9A」
長さ五メートルを超えるキャンバスを床に置く。絵具は垂らされ、流され、はじかれる。「Summertime」は夏を描かない。身体のリズムをとどめる。
アルベルト・ジャコメッティ。「Man Pointing」。
ジャコメッティは「Man Pointing」をひと晩で、真夜中から朝九時までに作り直した。鋳造所の人々が来たとき、石膏はまだ濡れていた。男が何を指さしているのか、誰も知らない。
クリスチャン・ディオール(Christian Dior)「Bar Suit」
ウエストに沿わせたタッサーシルクのジャケット、硬いペチコートの上のプリーツの入ったウールのスカート。誰かが着る前に、スーツの中に体形が縫いこまれている。
バーバラ・ヘップワース。「Pelagos」。
楡の塊をくりぬき、互いに巻きこむふたつの腕にする。内側は淡い青、張りつめた紐が渡される。ヘップワースはそれを海と呼んだ。
コンスタンティン・ブランクーシ(Constantin Brâncuși)「Le roi des rois」
高さ三メートルを超える樫の彫刻。建てられなかった神殿のために作られた。神殿はない。彫刻は残り、その部屋を連れて歩く。
ヘンリー・ムーア(Henry Moore)。「Recumbent Figure」。
ムーアは、長く低い家の前に置く彫刻を頼まれた。立つ像は建てなかった。横たわる像を彫り、水平線のほうを向かせた。
パブロ・ピカソ「Femme en pleurs」
パレットでいちばん明るい色で描かれた、泣く女。ピカソは悲しみを暗くしなかった。まぶしくした。
パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)「Guernica」。
八メートル近いキャンバス、色はひとかけらもない。「Guernica」はひと月あまりで描かれ、それから四十年以上待って、あるべき場所に届いた。
サルバドール・ダリ「Métamorphose de Narcisse」。
並んだふたつの同じかたち。水面の自分にかがみこむ男と、卵を持つ石の手。十分に長く見ていると、男は手に変わり、卵から花が咲く。
ピエト・モンドリアン(Piet Mondrian)。「Composition C (No.III) with Red, Yellow and Blue」。
ほぼ正方形のキャンバス、数本の黒い線、いくらかの白、少しの赤、黄、青。モンドリアンはごくわずかしか使わなかったので、どの要素も自分の分を担わなければならなかった。
ジャン・アルプ(Jean Arp)。「According to the Laws of Chance」。
アルプはかつてはさみで紙を切り、縁をすべてなめらかに研いだ。やがて屋根裏で古いコラージュがかびているのを見つけ、破りはじめた。
ルネ・マグリット「L'Homme au journal」
同じ部屋を、四度。一枚目では男が新聞を読んでいる。次の三枚で、彼はいない。ほかは何も変わらない。
ラースロー・モホリ=ナジ(László Moholy-Nagy)。「K VII」。
黒い棒、透明な灰色の面、淡い地。「K VII」はどんな物も描かない。構造を組むように、光を組む。
ピート・モンドリアン(Piet Mondrian)。「Tableau 2」。
ほぼ正方形のキャンバス、黒い格子、いくつかの原色。1922年までに、モンドリアンは世界を直線、直角、均衡にまで削ぎ落としていた。
マン・レイ「Cadeau」
アイロンはまだ重く、まだ冷たく、まだ取っ手がある。釘を一列加えると、それはもう家庭の道具ではない。
マックス・エルンスト(Max Ernst)。「Celebes」。
人類学の雑誌に載った、粘土のトウモロコシの貯蔵庫。マックス・エルンストは胴と角と目を加え、それは怪物になった。
ポール・ストランド、チャールズ・シーラー。「Manhatta」。
朝のフェリー、建物のあいだの煙と蒸気、屋上から見る夕日。「Manhatta」は、ひとことの台詞もなく、ある都市の一日を記録する。
マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)。「Fountain」。
デュシャンは便器を作らなかった。選び、向きを変え、偽の名で署名した。オリジナルは失われた。残るのは一枚の写真と複製。
ナウム・ガボ(Naum Gabo)。「Head No. 2」。
塊を彫るのでも、粘土を捏ねるのでもない。ガボは薄い面で頭部を組み、内側の空間を素材にした。
カジミール・マレーヴィチ(Kazimir Malevich)。「Black Square」。
部屋の隅に掛けられた黒い正方形。マレーヴィチはそれを始まりと呼んだ。X線は、黒の下にもう一枚の絵を見せる。
カジミール・マレーヴィチ(Kazimir Malevich)。「Dynamic Suprematism」。
画面に物はない。色と形と、動くための白い余白だけ。マレーヴィチは下描きなしで、キャンバスにじかに描いた。
マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)、リチャード・ハミルトン(Richard Hamilton)。「The Bride Stripped Bare by Her Bachelors, Even (The Large Glass)」。
ひびの入ったオリジナルはフィラデルフィアにある。テートの版は、メモの切れ端から組み直された。ガラスの上に油彩、鉛、埃、ワニス。
ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico)「The Uncertainty of the Poet」
頭のない石膏のトルソ、黄色いバナナの房、影を落とすアーケード、遠くの列車。デ・キリコは1913年にそれらを並べ、なぜかを問うことを私たちに残した。
ジェイコブ・エプスタイン「Torso in Metal from 'The Rock Drill'」
1915年、石膏のロボットが本物の削岩機にまたがっていた。戦後、エプスタインは削岩機を捨て、像を腰で切り、残りをブロンズで鋳造した。
マルク・シャガール「Paris through the Window」
八枚のガラスの窓、人の顔をした猫、ふたつの顔をもつ男。シャガールは1913年にパリを描き、故郷ヴィテブスクを絵の中に連れてきた。
ソニア・ドローネー、ブレーズ・サンドラール「La Prose du Transsibérien et de la petite Jehanne de France」。
二十二の折り、シベリアを横切る列車の詩、言葉を説明するのではなく言葉とともに旅する色。この本は、すべてひらいたときにしか読みきれない。
ウンベルト・ボッチョーニ(Umberto Boccioni)。「Unique Forms of Continuity in Space」。
ボッチョーニは1913年に石膏で原型を作った。ブロンズになるのを見ることなく亡くなった。それが存在するのは、誰かが壊れた破片を集め、貼りあわせたから。
ジョルジュ・ブラック(Georges Braque)「Clarinet and Bottle of Rum on a Mantelpiece」
横たわるクラリネット、瓶の上の RHU の文字、その下の VALSE の語。ブラックは物を描き、物と物のあいだの空間を描いた。
ロベール・ドローネー「Red Eiffel Tower」。
キャンバスの端を越えて伸びる赤い塔、その脚は歩いているように見える。ドローネーはエッフェル塔を分解し、あらゆる側から同時に見ようとした。
ワシリー・カンディンスキー。「Cosaques」。
赤い帽子、槍、虹はまだそこにある。けれど溶けはじめている。「Cossacks」は、抽象の縁に立つ絵。
エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)「The Scream」
テンペラ、クレヨン、一枚の板。フィヨルドのほとりの道で顔を押さえる人物。叫びは誰にも聞こえない。それでも見る人は皆、それが本物だと知っている。
アーサー・ジャファ。APEX。
雑誌や新聞から何十年も切り抜いてきた図像を、8分の映像に圧縮する。「APEX」は、アーサー・ジャファが像を重ね合わせる場所。
ジャンプスーツ。
首から足首まで、一枚の布。ジャンプスーツは工房と戦争と革命を通り抜けてダンスフロアへ至り、そのたびに違う意味を持った。
デザインとしてのファッション。
誰もが何かを着ている。「Fashion as Design」は問う。私たちが着るものはどう作られるのか。それは着る人について何を語るのか。
ヒッポリート・ブランカール。プラチナプリント。
1887年から1889年まで、薬剤師イポリット・ブランカールは建設中のエッフェル塔を月ごとに撮影し、プラチナで焼き付けた。ほとんど褪せないプリント。
近代美術とは何か。
都市が膨らみ、工場が建ち、カメラが現れた。芸術家たちは世界を写すのをやめた。自分に見えるとおりに描きはじめた。
現代アートとは何か。
現代アートに、ひとつの定義はない。絵画であり、映像であり、ひとつの部屋であり、じっと座る一人の人である。共通するのは、答えるより多く問うこと。
芸術としての写真。
カメラはレンズの前のすべてを記録する。写真家はそうしない。写真が芸術になるのは、何を見て、何を外すかを選ぶところにおいてだ。
Rael San Fratello「Teeter Totter Wall」。
紙に描かれたひとつの着想が、10年後、国境の壁を貫く三つのピンクのシーソーになった。1時間に満たないあいだ、両側の子どもたちが一緒に遊んだ。
スポーツジャージ。
番号とチーム名の入ったシャツ。かつては制服、いまは自分が誰かを語る手段。ジャージがフィールドから街へ旅した道のり。